ジーザス、エブリワン!キートンです。
世界史の授業とかでもセットでよく出てくるイメージあるけど。。
こういった疑問にお答えします。
キリスト教は、今でこそ知らない者はいないほどの世界的な宗教です。
しかし、最初からそうだったわけではありません。
無名のところから、苦難を乗り越えて少しずつ広まっていったのです。
そう、まるで厳しい下積み時代を乗り越えてスターへと上り詰める歌手のように!!
そして、このキリスト教の拡大に大きく関係しているのがローマ帝国です。
ローマ帝国といえば、かつて広大な領土を支配していた巨大な国。
そんな大きな国の中で、キリスト教は荒波にもまれつつ存在感を強めていきます。
そうです、ローマ帝国とキリスト教は切っても切り離せない関係にあるのです!
そこでこの記事では、クリスチャンの僕が、ローマ帝国におけるキリスト教の歴史をざっくりまとめていきたいと思います。
目次
ローマ帝国でのキリスト教の歴史まとめ
では、具体的な歴史の内容に入っていきましょう。
歴史全体は中々複雑ですが、なるべく分かりやすくご紹介していきますよ~!
- キリスト教の誕生
- ネロ帝のキリスト教徒迫害
- キリスト教の大迫害
- キリスト教が公認される
- キリスト教が国教化される
- ローマ帝国の東西分裂
- キリスト教会の東西分裂
ただし、分かりやすさ重視のために本当にざっくりなので、
というクレームはご遠慮ください!
キリスト教の誕生
キリスト教が誕生する前の時代、
そして、
そんな頃に登場したのが、イエスです。
当時、
しかし、
(イエスが起こした奇跡は、イエス・キリストが起こした奇跡まとめ15選【ジャンル別にご紹介】でまとめています。)
「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」
(マタイによる福音書4章23節)
これを見た民衆は、
と期待します。(こんな口調かは知りませんが)
ところが、民衆の熱狂的支持を集めて影響力を高めていくイエスは、ローマの権力者たちからすれば脅威でしかありません。
民衆をあおって、反乱でも起こされたらたまったもんではありませんからね。
結果的に、イエスは弟子のイスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられ、ローマ総督のピラトに十字架で処刑されてしまいました。
これには、ユダヤ人たちはさぞ失望したことでしょう。
なにしろ救い主だと期待していた男が、あっけなく死んでしまったのですから!
しかし、イエスが地上に来られたのは、ユダヤ人をローマ帝国の支配から救うためではありません。
全ての人間を罪から救うためでした。
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」
(ペテロの第一の手紙2章24節)
すると、なんとイエスは3日目に死から復活。
イエスの昇天後、
特に、
こうして、ローマ帝国内の各都市にいくつかの教会が誕生していきます。
イエスキリストについては、【完全版】イエス・キリストとは?その生涯を簡単にまとめてみたをどうぞ
ネロ帝のキリスト教徒迫害
これで、キリスト教はローマ帝国に順調に広まって。。とはもちろんなりませんでした。
宗教の普及ってそんなに甘いもんじゃありませんぜ!!
キリスト教が成立して間もない頃、ローマ皇帝にとんでもなく残虐な男が即位してしまいました。
暴君として知られるネロです。
事の発端は、64年にローマ帝国で起きた数日にも渡るかつてないほどの大火事。
その際に民衆の間では、
という悪い噂が立ってしまいます。
すると、ネロはこの噂をもみ消すために、
そして、
他にも、キリスト教徒たちを
- 猛獣のえさにする
- 十字架に架ける
- たいまつの代わりに燃やす
といった非道極まりない行為も行っていたんだとか。(悪魔かな?)
これこそが、ローマ帝国における最初のキリスト教徒弾圧でした。
政治的な理由があるならまだしも、こんなめちゃくちゃな理由で弾圧されたんじゃたまったもんじゃないですよね!
暴君にふさわしい悪党でっせ、ネロという男は!!けしからん!!
ただ、皮肉にもこの出来事がきっかけで、当時はほぼ無名だったキリスト教の存在がローマで知られるようになるんですよね。。なんか複雑。。
ちなみに、使徒である
- ペテロ
- パウロ
もこの頃に殉教したと言われています。
キリスト教の大迫害
さて、このキリスト教迫害が最も激化したのは、3世紀に登場するディオクレティアヌス帝の頃です。
ディオクレティアヌスは、専制君主政(ドミナートゥス)という新たな政治体制を開始します。
また同時に、伝統的なローマの神々への礼拝も義務付けました。
ただ、数が増えつつあったキリスト教徒に対しては、混乱を防ぐために
という比較
しかし、キリスト教は唯一神を信仰する一神教。
皇帝を拝むこともローマの神を拝むこともありえないことであり、彼らは皇帝の要求を無視。
それどころか、キリスト教徒の兵士が軍から離脱するといった反逆行為まで起こるようになりました。
このことを重く見たディオクレティアヌスは、303年に
具体的な内容は以下のようなものです。
- キリスト教徒を強制的に改宗させる
- 聖職者全員の投獄や逮捕
- 聖書を焼き払う
- 教会を破壊して財産を没収する
- 数千人以上が処刑される
ネロといいディオクレティアヌスといい、本当に人の血が通っているんでしょうか。。?
この迫害はローマ全土に及び、
“最後の大迫害”なん
しかし、これだけの迫害を受けて、
それは、カタコンベ(地下墓所)と呼ばれる地下の避難所・
☟こんなやつ。こりゃあ気づかれないわ。
いやー、キリスト教徒の生命力半端ないっす!!
そういえば、日本でもかつて隠れキリシタンという存在がいましたよね!
キリスト教が公認される
苦しい時期を通っていたキリスト教徒でしたが、この風向きが大きく変わるのが、コンスタンティヌス1世の
コンスタンティヌス1世は、
313年になると”ミラノ勅令”を出し、
こうして弾圧は終わり、ローマ帝国内でのキリスト教の力や存在感は大きく高まりました。
同時に、今まで隠れて信仰していた教会に経済的援助も与えられ、堂々と活動をし始めます。
まさに水を得た魚ですね!
使徒ペテロの墓所に教会を建設させたのも、コンスタンティヌス帝でした。
この教会が、後の”サン・ピエトロ大聖堂”のもとになっていきます。
☟サン・ピエトロ大聖堂。バチカン市国にあるカトリック教会の総本山ですね!
ちなみに、コンスタンティヌス1世は、
この影響は大きく、
後のローマ皇帝は、ほとんどクリスチャンですし。。!
ところが、その後に即位したユリアヌス帝は、宗教寛容令を出してローマの神々への信仰を復活。
キリスト教の公認を取り消したため、後にクリスチャンたちからは“背教者”
キリスト教が国教化される
しかし、
392年、当時のローマ皇帝であるテオドシウス帝は、”異教徒禁止令”を発令。
キリスト教(カトリック)は事実上国教化され、キリスト教信仰が義務づけられました。
こうして、キリスト教はローマ帝国の国家宗教となったのです!
ただし、テオドシウス帝の死後、395年にローマ帝国は東西に分裂してしまいます。(後述)
また、カトリックの教えを確立させるのに大きな役割を果たした人物がアウグスティヌスです。
アウグスティヌスは、初期キリスト教における最大の思想家で、
といった著書でも知られていますね。
こうしたアウグスティヌスの思想は、中世キリスト教(カトリック)神学の基礎となっていきました。
実は一時期、異教徒(ゲルマン人)の影響でキリスト教は存続の危機にあったこともありました。
しかし、それでもキリスト教が生き延び、
ローマ教皇を頂点としたカトリック教会が中世ヨーロッパ最大の勢力となれたのは、アウグスティヌスの影響が大きいんです!
いやー、とんでもない影響力ですわ!!
ローマ帝国の東西分裂
前述したように、テオドシウス帝の死後ローマ帝国は東西に分裂してしまいます。
その内の西ローマ帝国は、ゲルマン人などの侵攻により476年に滅亡してしまいました。
一方の東ローマ帝国も、ゲルマン人の侵攻は受けますが、西方に移動することで何とか滅亡の危機を回避。
7世紀頃からはビザンツ帝国と呼ばれ、なんと1453年まで続くこととなります。
(ただし、分かりやすくするために以降も東ローマ帝国と表記します。)
ビザンツという名前は、ローマの首都であるコンスタンティノープルの旧名称”ビザンティオン”(ビザンティウム)に由来します。
このように、ローマ帝国は分裂してしまいましたが、
ローマ文化とキリスト教は東ローマ帝国にも継承されていきました。
ただし、東ローマ帝国でのキリスト教は独自の発展を遂げ、
新しい首都であるコンスタンティノープルの教会を中心にしたキリスト教は、正教会と呼ばれるようになりました。
こうして、正教会は東ローマ帝国の国教となっていきます!
キリスト教会の東西分裂
さて、ローマ帝国内には、
- ローマ教会
- コンスタンティノープル教会
- アレクサンドリア教会
- イェルサレム教会
- アンティオキア教会
という5つの中心的な教会(五本山)があり、お互いに共存関係にありました。
ただ、教会には上下関係があり、ローマ教会が最も偉い地位にあったのです。
しかし、4世紀に入ってコンスタンティノープルが新しい首都になると、
コンスタンティノープル教会はローマ教会に次ぐ地位を与えられます。
そして、7世紀に入ると、他の3教会はイスラムの支配下に入って衰え、
- ローマ教会(西)
- コンスタンティノープル教会(東)
の2教会が激しくトップの座を争うようになりました。
その対立を深めるきっかけになったのが、8世紀のレオ3世による聖像禁止令です。
当時のキリスト教では、
- イエスキリスト
- 聖母マリア
- その他の聖人
などの聖人像やイコン(聖画像)が多く作られていましたが、レオ3世はそれらを全て禁止し破壊するように命じました。
すると、この出来事がきっかけで東西教会内で”聖像崇拝論争”が巻き起こります。
こうして、両教会は教えや儀式などの違いによる争いが増え、対立が深刻化。
1095年には西方教会(カトリック)と東方教会(正教会)は完全に分離してしまうのです。
ローマ帝国といい、東西分裂大好きか!!
ちなみに、東ローマ帝国は1453年にオスマン帝国の侵攻によって滅亡しました。
キリスト教の主な宗派については、【解説】キリスト教の主な宗派は?3つをわかりやすくまとめてみたをどうぞ
ローマ帝国で開かれた主な公会議まとめ
上記では省きましたが、ローマ帝国内ではキリスト教に関する様々な公会議が開かれました。
公会議とは、教皇の招集によって開かれる教会全体の教えやルールを決める会議のこと。
なぜなら、イエスの死後から時間が経つと、キリスト教内で教えに関するいくつもの派閥が現れてきたからです。
そのため、公会議によってキリスト教の教えを統一しようということになったんですね。
というわけで、ここではローマ帝国内で行われた主な公会議をまとめてご紹介したいと思います!
- 325年 ニケーア公会議(コンスタンティヌス帝)
- 381年 コンスタンティノープル公会議(テオドシウス帝)
- 431年 エフェソス公会議(テオドシウス帝2世)
- 451年 カルケドン公会議(マルキアヌス帝)
ニケーア公会議(コンスタンティヌス帝)
325年に、コンスタンティヌス帝によって開かれたキリスト教で初めての公会議。
この会議で対立したのは、以下の2つの派閥です。
- アリウス派
➡イエスは神ではない!
- アタナシウス派
➡イエスは神の子である!
その結果、イエスが神の性質を持っているということが認められ、
アタナシウス派は正統、アリウス派は異端とされました。
そして、アタナシウス派の考え方は、続いてのコンスタンティノープル公会議にて“三位一体説”として確立されていきます。
コンスタンティノープル公会議(テオドシウス帝)
381年に、テオドシウス帝によって開かれた公会議。
この会議によって、聖霊に関しても神の性質があることが認められます。
こうして、神様には、
- 父なる神(創造主)
- 子なる神(イエス・キリスト)
- 御霊なる神(聖霊)
という3つの位格があるとする三位一体説が正統とされ、確立されたのです。
詳しくは、【徹底解説】”三位一体”の意味とは?わかりやすくまとめてみたをどうぞ
エフェソス公会議(テオドシウス帝2世)
431年に、テオドシウス2世によって開かれた公会議。
この会議で議論になったのは、イエスがどのような存在なのかというものです。
つまり、イエスの本質は、
- 人なのか
- 神なのか
- 両方なのか
というテーマですね。
その結果、イエスの本質は人であるとしたネストリウス派が異端とされ、ローマ帝国内での布教を禁じられました。
カルケドン公会議(マルキアヌス帝)
451年に、東ローマ皇帝のマルキアヌスによって開かれた公会議。
エフェソス公会議でネストリウス派は異端となりましたが、今度はイエスの本質は神であるとする単性説が現れます。
その結果、以下の2つの派閥が争うことに。
- 単性説
➡イエスの神性のみを認める!
- 両性説
➡イエスは神でもあり人でもある!
そして、両性説が採用され、単性説が異端とされました。
まとめ:ローマ帝国とキリスト教は切っても切れない関係!
◎ローマ帝国でのキリスト教の歴史
- キリスト教の誕生
- ネロ帝のキリスト教徒迫害
- キリスト教の大迫害
- キリスト教が公認される
- キリスト教が国教化される
- ローマ帝国の東西分裂
- キリスト教会の東西分裂
ローマ帝国とキリスト教。
いかに密接な関係があるか分かりましたか??
たとえるなら、牛丼と紅しょうが、ミートソーススパゲティと粉チーズくらい密接です!
まあ、ローマの歴史は長いので、細かい部分を見ていくとまだまだ色んな関係があるんですけどね。
詳しく知りたい方は、ぜひご自分で調べてみてくださいね!
キートンでした。
☟参考サイト