ジーザス、エブリワン!キートンです。
キリスト教で必ず出てくるキーワードと言えば、“罪”。
皆さんも町中とかで、

などと書かれた教会の看板なんかを見たことがありませんか?
「胡散くせー」と冷ややかな目で見ているかもしれませんが、看板をバキバキに壊すのは少し待ってください。

確かにそれらも罪ではありますが、罪の本質ではありません。
そこで、クリスチャンであるわたくしキートンが、“罪とは何か”

Contents
キリスト教の言う”罪”とは?

最初に結論を言っておきましょう。
キリスト教の言う罪の本質は、“神様から離れてしまうこと”です
“神様に背を向けて生きること”とも言い換えられます。
ですから、犯罪行為に限らず、私たちと神様の関係を引き裂いてしまうものは全て罪なのです。
例えば、
- 盗み
- 殺し
- 嘘
- 嫉妬(しっと)
- 傲慢(ごうまん)
- 偶像崇拝
- 浮気・不倫
これらは全て罪にあたります。
なぜなら、私たちの神様への信仰や愛を失わせるものだからです。
どうですか?
一般的な罪と比べると、だいぶ罪の基準が高いでしょう?
では、キリスト教の言う罪と、

キリスト教の罪と一般的な罪の違い

キリスト教における罪と一般的な罪の違いをまとめると、
- 一般的な罪 ➡️犯罪を犯すこと
- キリスト教の罪➡️神様から離れること
もし皆さんが、クリスチャンにいきなり、

とか言われたら、きっとイラっとしますよね?
なぜなら、一般の方の多くは、自分は罪人ではないと思っているからです。
これは、罪=犯罪という勘違いからくるものです。
しかし、キリスト教基準で見れば、罪を犯したことのない人間など1人とし
なぜなら、人間は生きている間、神様に背き続けているからです。

これは、
そう、人間は全員が罪人なのです。
聖書にもこう書かれています。
「善を行う者はいない、ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙 3章12節)

“罪”のことが分かる聖書のお話は?
人類の歴史はすなわち、罪の歴史。
聖書にもたくさんの罪が出てきますが、
罪の原点”アダムとエバ”

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
(創世記3章6節)
罪のルーツを追っていくと、
アダムとエバは元々エデンの園という楽園に暮らしており、その頃はまだ罪などありませんでした。
しかし、ヘビに誘惑された結果、
これこそが人間が犯した初めての”罪”でした。
こうして、
まさに、罪を犯したことで彼らは神様から引き離されてしまうことになったのです。
この罪のことを“原罪”と呼び、
人間に”死”が訪れるようになったのもここからです。

放蕩息子のたとえ話

「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」
(ルカによる福音書15章13節)
イエス・
ある息子が父親から財産を受けとって家を飛び出しますが、
そして、一文無しになって帰ってきた息子を、
登場人物はそれぞれ、
- 放蕩息子➡️人間
- 父親 ➡️神様
を表していますが、このお話のポイントは、
ここでもやはり、放蕩息子である人間が父である神様から遠ざかってしまっていますよね?
つまり、家を飛び出した放蕩息子の姿は、

罪というものの本質が見事に描かれていますね。

99匹の羊のたとえ話

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
(ルカによる福音書15章4節)
“99匹の羊”も、イエス・キリストが語られたたとえ話の1つ。
主な内容は、羊飼いが100匹の中からはぐれてしまった1匹の羊
もう大体分かるかと思いますが、
- 羊飼い ➡神様
- 99匹の羊 ➡神と共に歩んでいる人
- 見失った1匹の羊➡神に背いている罪人
を表しています。
ここでもやはり、罪人である1匹の羊は神様から離れてしまっています。
しかし、その罪人を神様は必死に探して、自分のもとに戻そうとしてくださるのです。
罪の本質と神様の憐れみ深さが分かるお話ですね。


罪を背負ったままだとどうなる!?
では、もし
神様からの恵みを受け取れなくなる

まず、罪を背負っていると、神様からの恵みや祝福などを受け取ることができなくなってしまいます。
なぜなら、神様から離れてしまっているからです。
聖書にはこうあります。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」
(ローマ人への手紙 3章23節)
この世の良いものは、全て神様から与えられます。
罪はそれを遠ざけてしまうんですね。
これは非常にもったいないですね!
地獄に落ちる

罪を持ったまま死んでしまうと、その先に待っているのは”永遠の滅び”です。
“地獄に落ちる”と言った方が分かりやすいでしょうか。
聖書にはこうあります。
「罪の支払う報酬は死である。」
(ローマ人への手紙6章23節)
ここで言う死はもちろん、ただ死ぬことではありません。
“永遠の死”ということです。
地獄には神様もおらず、
希望などなく、サタンたちに永遠の火で焼かれ続けます。


どうしたら罪から解放されるの!?実はもうされています!


いえいえ、その心配はありません。
なぜなら、2000年以上前にイエス・
イエス・キリストは罪を犯したことのない完全な存在です。
そのお方が私たちの身代わりに十字架にかかって死なれたので、あなたの罪はもうゆるされているのです!
聖書にはこうあります。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書 3章16節)
ですから、もう私たちは、罪の意識に苦しむ必要はないのです!
ただし、これだけではまだ救いは完了していません。
私たちが本当の意味で救われて永遠の命を得るためには、
聖書にもこうあります。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」
(ローマの信徒への手紙 10:9)
“信じれば救われる”
キリストの教えは非常にシンプルなのです!
☟このあたりの詳細はこちらの記事をご覧ください。

まとめ:罪を犯したら、神様のもとへ帰ろう!

キリスト教のいう”罪”の意味、理解できましたか?
一般的に認識されている罪とは完全に別物でしたね。
イエス・キリストが十字架にかかられてからも、人類は罪を犯して神様に背き続けています。
しかし、罪を犯してもすぐに悔い改めて神様のもとに帰ってきましょう!
そうすれば、神様は温かくゆるしてくださいます。
。。。さて、これで僕も安心してあの言葉を皆さんに言うことができますね。
あなたは罪人です!!(うるさい)
ではまた!
