ジーザス、エブリワン!キートンです。
めちゃくちゃ残酷な刑だったって本当?死因は?
こういった疑問にお答えします。
今から2000年以上前に、イエスキリストが十字架に架かられまし
その事実はクリスチャンでなくても知っているはずです。
しかし、十字架による処刑が一体どれほどの苦しみだったのかをリアルに想像したことは
もしかしたら、十字架刑をただ十字架に架けられるだけの処刑だ
しかし、皆さん今から考えを改めてください。
十字架刑というのは想像以上にきっっっっつくて残っっっっ酷な処
そこで、クリスチャン歴28年の僕がこの記事で
十字架刑の恐ろしさをできるだけ具体的に語っていきたいと思います。
また、イエスキリストの死因についても見ていきますね。
イエスキリストについては、【完全版】イエス・キリストとは?その生涯を簡単にまとめてみたをどうぞ
目次
十字架刑とは?
十字架刑は、
当時最も残酷と言われた処刑方法です。
あまりにもムゴイ刑なので、ローマ市民権を持っている人はこの刑を免除されているほどでした
中でも、イエスキリストが十字架で処刑された出来事は、“キリスト
【閲覧注意】十字架刑がいかに残酷で苦痛な刑なのかまとめてみた
さあ今から十字架刑の恐ろしさを具体的な流れを通してご紹介していきますが、
ここでご紹介するのは、
十字架刑にも色んな方法があるようなので、
主な十字架刑の流れは、以下の通りです。
◎十字架刑の流れ
- “
フラグラム”という金属や骨の破片がついた鞭で、肩や背中を骨が見えるほど引き裂かれる - 茨の冠を被せられ、唾を吐きかけられながら「ユダヤ人の王、万歳」と馬鹿にされる
- 十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩かされる
- 全裸で十字架の上に寝かされ両手首・両足首にぶっ
とい釘を打たれる - 数時間苦しんだ後、窒息や心臓の衰弱によって死に至る
手順①鞭打ち
「そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」
(マタイによる福音書27章26節)
十字架刑はいきなり十字架に架けられるわけではありません。
その前にも、色々と受刑者を痛めつける手順があるのです。(ドS)
その最初となるのが鞭打ちです。
鞭打ちというと背中にミミズ腫れができるくらいだろうと思うかも
ローマ人が主に使用したのは、”
その長さは1m以上あり、3本の皮がまとまったものでした。
つまり、1回の鞭打ちで3回分の威力があるのです。
しかも、その威力は、皮膚を裂き、肉をえぐり取り、
普通の鞭とは桁違いの威力なんですね。
生き延びたとしても、
ちなみに、ユダヤの律法では鞭打ちの上限は39回までとなっていますが、(☟参照聖句)
「その悪い者が、むち打つべき者であるならば、さばきびとは彼を伏させ、自分の前で、その罪にしたがい、数えて彼をむち打たせなければならない。 3彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。」
(申命記25章2、3節)
イエスに鞭打ちをしたのはローマ兵なのでもっと回数が多かった可能性もあります。
しかし、これはまだまだ序の口。
この後の流れを考えると、むしろこの鞭打ちで死んでしまったほうが幸せかもしれません。。
手順②茨(いばら)の冠を被せる
「17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 18「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。 19また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。」
(マタイによる福音書27章27~29節)
鞭打ちが終わっても、まだ十字架は登場しません。
こんなのは準備体操だとばかりに、続いては痛々しい茨(いばら)の冠を被せられます。
当然、そんなものを被せられたら頭には激痛が走り、血が流れるでしょう。
しかし、茨の冠で味わうのは物理的な苦痛だけではありません。
この冠は、精神的苦痛も味わうようなカラクリになっているのです。
どういうことかというと、冠というのは本来、王様が被る威厳の象徴的アイテム。
元々、イエスキリストは”ユダヤ人の王”を名乗った罪(もちろん冤罪)で捕まっています。
つまり、冠を被せることで、ユダヤ人の王を名乗ったイエスキリストを侮辱しているということです。
それなら冠を被せてやらないとな~??
ということですね。(ゲス過ぎる)
また、紫の衣や葦(あし)の棒も身に付けさせられていますが、これはローマ皇帝に対して行われる礼拝の儀式を真似たもの。
つまり、イエスキリストを王としてバカにするだけでなく、皇帝にも見立ててバカにしたのです。
そして、
- ひざまずいたり
- 唾を吐きかけたり
- 葦の棒を奪って頭を叩いたり
して肉体的にも精神的にも散々痛めつけたのでした。
手順③十字架を運ばせる
「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴダ)という場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを十字架につけた。」
(ヨハネによる福音書19章17節)
精神的侮辱が終わった後、ここでようやく十字架が登場します。
さて、いよいよ十字架にはりつけられるのか。。と思いきやまだ早いです。
それも、町の人々に囲まれて罵詈雑言を浴びながらです。
十字架の重さは合計で約70〜90kg(諸説あり)ほどあり、運ぶ距離は1.
こんなの健康な状態でもきついのに、
ねえねえ、鬼なの??そうなの??(錯乱)
とはいえ、さすがにイエス1人では十字架を運べそうもなかったので、
ローマ兵は近くにいたシモンという人物に十字架を運ばせたと”マタイによる福音書”には書いてあります。
「彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。」
(マタイによる福音書27章32節)
ゴルゴダの丘については、ゴルゴダの丘とは?場所はどこにあるの?【キリストが死なれた場所】をどうぞ
手順④十字架に架ける
「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこにすわってイエスの番をしていた。そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。 」
(マタイによる福音書27章35~37節)
さて、無事に(?)
ただし、
まず受刑者は服を脱がされて裸にさせられます。
よく絵画ではイエスキリストは衣類を腰にまとっていますが、
“ヨハネによる福音書”には、イエスの下着もはぎ取られている様子が描かれていますし。
「さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。」
(ヨハネによる福音書19章23節)
イエスの全裸を描くのは気が引けて、画家たちも遠慮したのかもしれません。
そして、その後十字架の上に寝かされ両手足にぶっ
釘を打つ位置は手のひらだと思われがちですが、
この位置だと、骨折もせず出血も抑えられます。
また、足に関しては45度曲げた状態でかかとあたりに釘を打たれます
ちなみに、イエスの頭の上には“これはユダヤ人の王イエス”という罪状が書かれており、十字架に架かっている間も、
という罵声が絶え間なく浴びせられました。
毎回、精神的苦痛も必ずセットになっているのはどういうこっちゃ。。
手順⑤悶え苦しみながら死に至らしめる
「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。」
(マタイによる福音書27章50節)
さあ、皆さんそろそろ気が滅入ってきた頃だと思います。
しかし、
何しろ、
皆さん、この記事を読み終わるまで絶対に逃げないでくださいね?
まず十字架が立てられると、
すると今度は胸に体重がかかり、
呼吸困難になると血中酸素濃度が低下し、
その内、受刑者の全身の筋肉は疲れ果て、
そう、なんと十字架刑の主な死因は窒息死なのです!
そのため、受刑者は丸2、3日たっぷり苦しんで亡くなっていくん
その間は当然、
また、
そして、
何しろ十字架刑は公開処刑であり、
これほどの辱(はずかし)め、屈辱があるでしょうか?
しかも、周囲からの罵詈雑言は続いているわけで。。
。。。すみません、そろそろ僕の呼吸が苦しくなってきました。(自滅)
イエスキリスト味わった苦しみは、このような言葉だけでは到底伝えきれないものなのです。
イエスキリストの十字架刑が見たいなら、映画『パッション』
さて、ここまでイエスキリストの十字架刑についてご紹介してきましたが、
文字だけではイマイチピンと来ない方もいるかもしれません。
そんな方におすすめしたいのが、映画『パッション』です。
本作は、2004年のアメリカ映画で、イエスキリストが十字架で処刑されるまでの12時間を描いた問題作です。
問題作と言ったのは、処刑されるまでの描写が非常にリアルでグロイから。
特に、ムチで打たれて血だらけになるシーンなんかは、目を背けたくなるほどです。
他にもイエスキリストを描いた作品はたくさんありますが、
本作ほど十字架刑にフォーカスした作品はないでしょう。
そして、これほどリアルに十字架刑を描いている作品も他にないと思います。
ですから、もし興味のある方は観てみてくださいね!
ただし、鑑賞は自己責任でお願いします。。(小声)
聖書系の映画については、【おすすめ】聖書が学べるキリスト教映画7選まとめ【動画あり】をどうぞ
まとめ:十字架に架かられたイエスキリストの愛を知れ!!
◎十字架刑の流れ
- “
フラグラム”という特殊な鞭で39回ほど背中をズタボロに引き裂かれる - 茨の冠を被せられ、唾を吐きかけられながら「ユダヤ人の王、万歳」と馬鹿にされる
- 約70〜90kgの十字架を背負って1.6Km先のゴルゴダの丘まで歩かされる
- 全裸で十字架の上に寝かされ両手足に30cmほどのぶっ
とい釘を打たれる - 呼吸困難になって2、3日もだえ苦しみながら死に至る
いかかでしたか?
皆さん、息してますか?(白目)
肉体的にも精神的にも極限まで追い詰められる刑、
その残虐さから、ローマでも途中で廃止になったそうな。
しかし、
それは、愛してやまない私たち人間の
聖書にはこう書かれています。
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」
(ローマ人への手紙5章8節)
十字架刑やべえ!で終わらせるのではなく、その大き過ぎる愛に感謝していきたいですね!
キートンでした。
ありがとうございます。
救われたいけど従うのが苦痛で、神様や地獄が怖いから仕方なく聖書の命令を守ろうとするのであって、悔い改めようにも感情がついてきてくれません。
自我の放棄とか、神様に作りかえて頂くとかを受け入れることができません。単に地獄にさえ行かなければクリスチャンとしての成長などはどうでもいいという考えさえ持ってしまいます。
同じ方がいないかなと考えていて「救われたいけど従うのが苦痛」などというワードで検索していたのですがなかなか見つからなくて…
クリスチャンの方は神様のご命令には喜んで従う事ができるのでしょうか?
また、そうでないと救われないのでしょうか?
いえ、むしろいつも聖書のルールや神様のご命令に喜んで従えるというクリスチャンのほうが少ないかと思います。
もちろん、私もそうで、それが人間の弱さです。
実際、偉大な預言者モーセも最初はイスラエル人たちをエジプトの奴隷から連れ出しなさいという神様の命令に恐れをなして断りましたし、預言者ヨナに至っては神様の命令に従うのが嫌で逃げ出しています。
しかし、それでも神様は怒ることなく彼らを祝福し、導いていかれました。
だから、ゆうなさんも最初は神様に喜んで従えなくても焦らなくていいのではないでしょうか。
1つ覚えておいていただきたいのは、ゆうなさんは洗礼を受けられてもう”神様の子供”だということです。ですから、神様から見たら、ゆうなさんは可愛くて愛おしくてたまらない存在なのです。
そんな愛溢れる父である神様がゆうなさんを罰したり、地獄に落としたりといった酷いことはされません。
ですから、ゆうなさんも少しずつでいいので、神様を父として見上げてみてはいかがでしょうか。そうすれば、そのうち、喜びを持って神様にお仕えできる日が来るはずです!
こんにちは。
クリスチャンと求道者の間をさまよっています。
私は決していい人ではなく罪人であり、このままだと地獄に行ってしまうことも知っています。
私は地獄に行きたくないです。イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んで、一度墓に葬られ、3日目に復活したことを信じていますが、聖書の命令を見ているととても厳しくて従うのが苦痛に感じてしまいます。
例えば、受験生なので礼拝に行こうか勉強しようかと葛藤してしまいます。元々占い中毒であったため止めるのに葛藤があります。いじめにあったり逆にいじめたり、もはやいじめがない方が私にとって不自然です。でもいじめは聖書の隣人愛に大いに反します。
聖書の神様が怖くて必死で従おうとしている状態です。
裁かれるのが怖くて。
イエス・キリストを私の救い主としては求めていますが、人生の主として受け入れる勇気がありません。
でも地獄に行きたくありません。
ずっとスマホで夜遅くまでネットで聖書について調べ、「寝ている間に死んだら地獄に落ちるのか」と恐怖で寝るのが怖くて、生活リズムが壊れて健康を害しています。
洗礼自体は受けているのですが、逆に洗礼を受けてしまったがために牧師先生に打ち明けにくいことです。
どうすればいいのでしょうか?良かったら相談に乗っていただけませんか?
ゆうなさん、コメントありがとうございます!
なるほど、それはお辛い状況ですね。。
地獄に行きたくない、自分も行くかもしれないという恐れは、私にも時々やって来る思いなのでそのお気持ちはとてもよく分かります。
一時期は、ゆうなさんのように夜も眠れないほど地獄の恐怖に怯えていた時期もありました。
ですが、ゆうなさんの文面を拝見していて、私はゆうなさんが地獄に落ちるような方だとはとても思えません。
なぜなら、
・自分が罪人だと自覚している
・地獄の存在を信じている
・受験生でも礼拝に行こうとする意志がある
・イエスキリストの死と復活を信じている
・神様を恐れている
・イエスキリストを救い主として求めている
・洗礼を受けている
など、むしろクリスチャンとして素晴らしい考え方をたくさんお持ちだと感じたからです。
本当に信仰がない者には、こういった思いはやってこないでしょう。
きっと現在の苦しみは、ゆうなさんが神様と必死に誠実に向き合おうとされているからこその苦しみなのではないのでしょうか。
もしかしたら、悪魔がそんなゆうなさんと神様を引き離そうと働いているのかもしれません。
ですから、今ゆうなさんがされるべきことは1つだけです。
ぜひ今抱えておられる苦しみや地獄への恐れ、罪の意識などを、包み隠さず神様にお祈りしてぶつけてみてください。
そして、今感じているご自分の罪を告白し、悔い改めてみてください。
ゆうなさんは、ご自身をいい人ではないとおっしゃいましたが、聖書に
「義人はいない、ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10節)
とあるように、いい人などこの世に1人していません。人間は皆罪人だからです。
もしいい人しか天国に行けないのであれば、天国に行ける人間など誰もいないでしょう。
ですから、本当に重要なのは、自分が罪人だと自覚することです。
そして、ゆうなさんはご自身を罪人だと自覚されています。それはもう神様の御心に近づいている証拠なのです。
イエスキリストを救い主だと信じ、自分の罪を悔い改める人間を神様は必ず救ってくださいます。
急に神様を全て受け入れるのは難しくても、お祈りしつつ少しずつ前進していきましょう!