ジーザス、エブリワン!キートンです。
後悔とは違うの?
こういった疑問にお答えします。
皆さんは、キリスト教の人が悔い改めるというワードを口にしているのを聞いたことがないでしょうか?
一般の方が日常的に使う言葉ではないので、何やら怖くて恐ろしい響きに聞こえますよね。
みたいな。
しかし、キリスト教において悔い改めというのは、とてもよく使われる大切な言葉です。
それでいて、きちんとした意味が伝わっていない誤解されやすい言葉であるとも言えます。
皆さんも、悔い改めとは後悔や反省などと似たような言葉だととらえていませんか?
ところが、実際はもっと本質的な意味があるのです!
そこで今回は、クリスチャンの僕が、
- “悔い改めよ”の意味や使い方とは?
- 悔い改めと後悔の違い
- 悔い改めをしないとどうなる?
- 具体的な悔い改めの方法
などについて分かりやすく解説していきたいと思います!
目次
“悔い改めよ”の意味や使い方とは?
悔い改めるとは、一般的には自分の過ちを反省して心を入れかえることを意味します。
しかし、キリスト教における悔い改めは、この説明では不十分です。
キリスト教における悔い改めとは、自分の罪を認めて神様に心を向けることです。
つまり、今まで罪を犯して神様に背を向けていたところから、神様に向き直ることですね。
このように、キリスト教における悔い改めには神様が中心にあるのです。
悔い改めというと、重い罪を犯した人だけの話だと思いがちですが、人は誰しもが神様から見れば罪人です。
だってほら、嘘を付いたことのない人はいませんよね??
こんなことでさえも、神様からすれば立派な罪なんです!
聖書にもこう書かれています。
「次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 11悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 12すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙 3章10~12節)
アダムとエバが罪を犯して以来、罪の性質が入り込み、人間は神様に背き続けているんですね。
(罪については、キリスト教の”罪”とは何?本質は1つだけです【クリスチャンが回答】をどうぞ)
ですから、悔い改めというのは全ての人間に必要なものなのです!
「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。」
(使徒行伝17章30節)
自分には関係ない!と思ってはいけないんですね。
ちなみに、悔い改めは、
- 自分の今までの罪を悔い改めて神様に立ち返った
- 神様に悔い改めのお祈りをする
- 悔い改めによって人生が変えられた
などといった使い方をします。
悔い改めと後悔の違い
悔い改めと似たニュアンスの言葉に、”後悔”というものがあります。
確かにどちらにも、自分がしてしまった過ちを悔やむといった意味合いがありそうですよね。
しかし、これらは似て非なるものです。
最も大きな違いは、神様に心を向けるかどうかです。
後悔は過去の過ちを悔やみはしますが、それで終わりです。
神様に心を向けることもなく、罪の中にとどまり続けます。
一方で、悔い改めはただ悔やむのでなく、神様への心の方向転換が伴います。
その結果、背を向けていた神様に向き直り、罪から離れた新しいスタートを切ることができるのです。
後悔と悔い改めの違いをまとめると、以下のようになります。
- 後悔
➡自分の過去の過ちを悔やむ。罪の中にとどまる。
- 悔い改め
➡過去の過ちを告白し神様に心を向ける。罪から清められる。
このように、ただ後悔だけで終わっては人生は変わらず、また同じ過ちを繰り返すことにもなりかねません。
しかし、自分の罪を悔い改めて心を神様に向けるなら、新しく前向きな人生が開かれていくのです。
実は、聖書の中でも後悔だけで終わった人物と悔い改めをした人物で明暗が分かれている例がいくつかあります。
2人ともその人生で大きな失敗をしましたが、その後の対応が全く異なりました。
サウル王は罪を犯した後も後悔こそしたものの、悔い改めには至らず罪を重ねました。
つまり、1度のみならず2度も神様の命令を無視してしまったのです。
「しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。」
(サムエル記上15章9節)
その結果、サウルは神様から見放され、悲劇的な最期を遂げることになってしまいました。
一方で、ダビデ王も、罪の大きさだけで言えばサウル以上の罪を犯しています。
なにしろ、人妻のバト・シェバを妊娠させたうえで、夫のウリヤを戦場に送り出して殺してしまったのですから。
しかし、ダビデは罪を犯した後に悔い改め神様に心を向け直しました。
「ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。」
(サムエル記下12章13節)
この事件後のダビデの悔い改めの祈りは、旧約聖書の”詩編”にも書かれています。
「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。 2わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。」
(詩編51編1、2節)
ダビデがいかに自分の罪を心から悔い改めたかが、文章からもひしひしと伝わってきますね。。!
だからこそ、ダビデは神様に愛され続け、イスラエルの偉大な王様として人生を全うできたのです。
また、イエスの12弟子だったイスカリオテのユダとペテロも良い例ですね。
イスカリオテのユダは、イエスを裏切ったことで有名ですが、その後の行動にも問題がありました。
ユダは自分の行いを後悔はしたものの、そのままイエスのところには戻らず自殺してしまったのです。
「3そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 4言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 5そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。」
(マタイによる福音書27章3~5節)
結果的に、ユダは12使徒だったにも関わらず、今や”裏切り者”の代名詞となってしまいました。
うーん、切ない。。
一方で、12弟子のリーダー格であるペテロも実はイエスを裏切っているのです。
ペテロは、イエスが処刑される際にイエスのことを3度も知らないと言いました。
「するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。」
(マルコによる福音書14章72節)
しかし、その後ペテロは悔い改めてイエスの弟子として大きく生まれ変わっていくのです。
イエスが昇天後のペテロは、まさしく別人のようですよ!
今やペテロは裏切り者どころか、偉大な使徒の1人して知られていますよね。
失敗をすることは誰にでもあります。
ですから、最も大切なのは失敗しないことではなく、失敗をした後にどうするかなのです。
このように、ただの後悔で終わるのか悔い改めにまで至るのかで人生は天と地ほどの差が生まれるんですね。
悔い改めをしないとどうなる?
では、果たして悔い改めをしないと人はどうなってしまうのでしょうか?
悔い改めなんてする必要があるのかよ!
と思っている方もいることでしょう。
しかし、脅すわけではありませんが、悔い改めのない人生は破滅への道です。
悔い改めがないと具体的にどうなるのかを見てみましょう!
- 道を踏み外してボロボロになる
- 罪によって滅びる
①道を踏み外してボロボロになる
上記の聖書の例を見ても分かり通り、悔い改めずに生きていくなら人は道を踏み外して堕落していきます。
なぜなら、悔い改めないということは、神様から離れて罪の中で生きることだからです。
聖書には、このような恐ろしい言葉が書かれています。
「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。」
(エゼキエル書18章30節)
例えば、罪の中に生きる極端な例を挙げると、
- 嘘を付いて人をだましまくる
- 浮気・不倫をしまくる
- お金や物に強く依存する
みたいな感じです。
ここまではないにしても、悔い改めをしないでいると人は罪に対して鈍感になっていきます。
そして、ますます罪を重ねるようになっていくのです。
聖書の中には、放蕩(ほうとう)息子という有名なたとえ話が出てきます。
「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 12ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 13それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 14何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。」
(ルカによる福音書15章11~14節)
放蕩息子は父親から財産を受け取って遠いところへ旅立った後、
遊び呆けてそれらを使い切ってしまい、ついには食べるものにも困るようになってしまいました。
このダメ息子は、神様から離れて罪の中で生きる私たち人間のことを表しています。
このように、私たちも悔い改めずに罪の中にとどまり続けるなら、ボロボロになっていくのがオチなのです。
悔い改めのない人生に、本当の幸せや喜びはありません!
②罪によって滅びる
悔い改めないと、ただこの世の中で堕落するというだけではありません。
悔い改めずに罪を持ち続けたまま死ぬと、死後の永遠の滅びにも繋がっていきます。
永遠の滅びというのは、もっと分かりやすく言うと地獄に落ちるということです。
なぜなら、やがてこの世の終わりに神による裁きである“最後の審判”が行われるからですね。
聖書にもこう書かれています。
「罪の支払う報酬は死である。」
(ローマ人への手紙6章23節)
「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」
(ルカによる福音書13章3節)
この世での苦しみは、死ねば終わるでしょう。
しかし、罪による永遠の滅びには終わりがありません。
死後もずっと苦しみ続けなければならないのです。
自分の罪を悔い改めてキリストの救いを受けることなしに、この永遠の滅びから逃れることはできません!
キリストの救いについては、【キリスト教用語】”福音”の意味とは?キリストの良い知らせ?をどうぞ
具体的な悔い改めの方法
ここまで随分怖い話をしてしまいましたが、では悔い改めるためにはどうしたらよいのでしょうか?
- 滝に打たれ続ける?
- 自分を痛めつけて反省する?
- 神様に償いのお金を払う?
いえいえ、どれも違います!
悔い改めの主なステップは、以下の2つです。
- 神様に罪を告白しゆるしを求める
- 神様に心を向けて歩き始める
それぞれ詳しく見ていきましょう!
①神様に罪を告白しゆるしを求める
悔い改めはまず、自分の罪を自覚することから始まります。
そして、罪の自覚ができたなら、神様にお祈りしてその罪を告白しましょう。
すると、神様は私たちの罪をゆるし清めてくださいます。
(お祈りの仕方は、【祈り方】お祈りの方法って?クリスチャンが3ステップで教えます!をどうぞ)
聖書にもこう書かれています。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」
(ヨハネの第一の手紙1章9節)
もちろん、私たちはもう2度と罪を犯さないと誓い、悔い改めたつもりでも再び罪を犯してしまう弱い存在です。
しかし、罪を犯したならその度に神様にゆるしを求めましょう。
神様は寛大なお方ですから、
今回はもう3度目だからなあ。。どうしよっかなー。。
といって渋るようなことはされません。
何度でも罪をゆるしてくださいます。
もちろん、だからといって積極的に罪を犯していいわけではないですけどね!
罪を犯したらすぐにお祈りをして神様にゆるしを求める。
この習慣こそが、罪から離れて生きるために必要なことなのです。
ゆるしについては、【キリスト教用語】”赦(ゆる)し”の意味とは?なぜ人を赦す必要があるの?をどうぞ
②神様に心を向けて歩き始める
いくら神様に罪をゆるしていただいても、再び神様に背を向けたままならそれは口先だけで真の悔い改めではありません。
その後に、神様に心を向ける必要があるのです。
もっと具体的に言うと、罪から離れ神様が望んでおられる生き方をしていくということですね。
と思うかもしれませんが、そんなときはぜひ聖書を読んでみましょう。
聖書には、神様が私たちにして欲しい生き方や教えが全て書かれています。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
(テモテへの第二の手紙3章16、17節)
それらに従って生きるとき、私たちの人生は清められ祝福されていくのです!
聖書については、【最強の書物】キリスト教の”聖書”とは?永遠のベストセラー!?をどうぞ
まとめ:悔い改めとは神様に心を向け直すこと!
いかがでしたか?
なぜクリスチャンがこれだけ”悔い改め”という言葉を重視しているかが分かりましたでしょうか?
悔い改めと無縁の人間はおらず、私たち全員に必要なものです。
悔い改めがなく神様から離れた人生は、虚しいんですね!
ところで、今回もし悔い改めという言葉自体を知らなかった方は、そのことを
今すぐに悔い改めてください。(やかましい)
キートンでした。