ジーザス、エブリワン!キートンです。
解釈やお話に込められたメッセージについても解説して!
こういった疑問にお答えします。
今回は、新約聖書に登場する“放蕩(ほうとう)息子”のお話をご紹介したいと思います!
イエスは生きている間にたくさんのたとえ話をされましたが、
“放蕩”というのは酒や女遊びにおぼれたりして、
つまり、放蕩息子というのは、
でも、実はこの放蕩息子というのは、罪深い私たち人間のことを表しているんです。
この記事では、クリスチャンの僕が、
- 『放蕩息子のたとえ』とは?
- 『放蕩息子のたとえ』のあらすじ
- 『放蕩息子のたとえ』に込められたメッセージとは?
- 放蕩息子の兄は律法学者とファリサイ派の人たちを表している?
について解説していきます!
イエスのたとえ話については、【2020年】イエスのたとえ話って何がある?主なものをまとめてみたをどうぞ
目次
『放蕩息子のたとえ』とは?
“放蕩息子のたとえ”とは、新約聖書の”ルカによる福音書”に書かれたたとえで、
イエス・キリストが語られたたとえ話の中でも最も有名なものの1つです。
主な内容は、父から財産をもらった息子が、放蕩をして遊び回ってお金を使い果たしてしまった後、
改心してまた父のところに戻ってくるというもの。
“罪を犯しても悔い改めれば神様はゆるしてくださる”というのがメインテーマですね。
イエス・キリストについては、【完全版】イエス・キリストとは?その生涯を簡単にまとめてみたをどうぞ
『放蕩息子のたとえ』のあらすじ
それでは、ダメむす。。ごほんっ。放蕩息子のストーリーを追っていきましょう。
放蕩息子、旅に出る
「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」
(ルカによる福音書15章13節)
あるところに、父親とその息子2人がいました。
ある日、息子の弟(放蕩息子)のほうが父に言いました。
(めちゃくちゃ失礼)
父親はこれに対して怒るわけでもなく、
すると、財産を受け取った弟はさっさと荷物をまとめて、家を
遠い国へと旅立ったのです。
しかし、弟はその旅の中で遊びほうけて、
放蕩息子、飢えに苦しむ
「何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 15そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。」
(ルカによる福音書15章14、15節)
その頃、ちょうどその国に※大飢饉(だいききん)が起こり、
※大飢饉
➡農作物が取れないことで食物が足りなくなって、人々が飢えに苦しむこと。
そこで、弟はある人のところに行って、
これは当時のユダヤ人にとっては、あらゆる職業の中でも最も卑しく下等な仕事でした。
しかし、
そのせいか、彼は豚のエサさえ食べたくなるところまで追い詰められてしまいます。(やばい)
なんというみじめな姿でしょうか。
家を飛び出して自由になったはずが、気づいたら奴隷のような身分にまで落ちぶれてしまったのです。
毎日そんな暮らしをしていると、彼はふと思い立ちました。
それなのに、自分は飢えて死にかけている。
ああ、なんてみじめなんだろう。。よし!家に帰ろう!
放蕩息子の帰還
「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」
(ルカによる福音書15章20節)
こうして、弟は父の住む家へと帰ってきました。
すると、まだ家にたどり前から父親は遠くにいる息子の姿を見つけました。
かわいそうに!あんなにボロボロになって。。!
父親はすごいスピードで弟のところへ来ると、
弟は言いました。
僕は神様にもお父さんにも罪を犯してしまいました。
もう僕は息子と呼ばれる資格はありません。
しかし、父親は使用人たちに言いました。
宝石付きの指輪や靴もだ。
それと、肥えた子牛を料理して盛大な祝宴(しゅくえん)の準備をしよう!
死んだと思っていた息子が生きていて、こうして帰ってきたのだから!
なんと父親は息子を責めるどころか温かく家の中に迎え入れたのです。
こうして、祝宴が始まりました。
兄の怒り
「兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 30それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。」
(ルカによる福音書15章29、30節)
一方で兄のほうは、その日も畑で働いていました。
家に戻ると、何やら騒がしいです。
事情を使用人から聞いた兄はブチ切れて、父親に言いました。
しかし、あなたは私に子ヤギ1匹くれたことはありません。
それなのに、遊びほうけてあなたの財産を使い果たしたダメな弟には、最上の子牛を与えて祝宴をあげるのですか!?
私は納得できません!
父親はなだめて言いました。
お前はいつだって私のそばにいた。だから、私のものは全てお前のものなのだ。
そして、今、死んだと思っていたお前の弟が無事に帰ってきた。お祝いするのは当たり前じゃないか!
『放蕩息子のたとえ』に込められたメッセージとは?
さて、このお話でイエスは何を伝えたかったのでしょうか?
主に2つのメッセージを見てみましょう!
- メッセージ①神の憐れみ深さ
- メッセージ②罪の本質
メッセージ①神の憐れみ深さ
まず、放蕩息子の大きなテーマは、“神様の憐れみ深さ”です。
このお話に登場する人物が誰のことをたとえているのかをまとめると、
- 父親 ➡神様
- 放蕩息子➡罪を犯した人間
という感じになります。
そう、私たちはこの放蕩息子のことを見て、
なんて思うかもしれませんが、放蕩息子というのは他ならぬ私たち自身なんです。
神様に背くような罪を犯したり、欲望のまま好き放題生きたり。。
しかし、神様はこの父親のように憐れみ深く愛に満ちたお方。
私たちがどんなに罪を犯しても、
反省して神様のもとに帰ると、いつでも温かく私たちを迎え入れてくださるお方なのです!
しかも、息子が来るのを待つのではなく、自分から走り寄っていますからね!
きっと息子のことを四六時中心配し、今か今かと帰りを待っていたに違いありません。
ここに私たち人間に対する神様のとてつもない愛があります
だって、考えてもみてください。
最初に放蕩息子が父親に財産を要求する場面がありますが、
「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。」
(ルカによる福音書15章12節)
だってまだ生きているんですよ、お父さん!
って言ってるようなものですからね、これ。
でも、父親は財産を与えたばかりか、
と思うかもしれませんが、神様は本当にそういうお方なのです。
この放蕩息子のお話を読んで、神様の愛の大きさ・憐れみ深さを知りましょう!
メッセージ②罪の本質
神様の愛や憐れみ深さが放蕩息子の大きなテーマだと述べましたが、このお話にはもう1つ大切なメッセージがあります。
それは、“罪の本質とは何か”ということです。
キリスト教にとっての罪というのは、一般的に思われているような犯罪行為のことだけを指すわけではありません。
キリスト教における罪の本質、それは“神様から離れてしまうこと”です。
神様に背を向けて生きるとも言えるでしょう。
そう、それはまさにこの放蕩息子の姿そのものです。
「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」
(ルカによる福音書15章13節)
放蕩息子のお話は、どうしても遊びほうけてお金を使い果たしたことに目が行きがちですが、
放蕩息子が父である神様の元から離れてしまったという部分も重要なのです。
これこそが罪の本質なんですね。
しかし、放蕩息子は再び父のもとに帰ってきました。
「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。」
(ルカによる福音書15章17~19節)
離れていた神様に再び立ち帰る、これが“悔い改める”ということです。
罪を犯しても悔い改めれば、神様はゆるしてくださいます。
聖書にもこう書かれています。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」
(ヨハネの第一の手紙1章9節)
罪については、キリスト教の”罪”とは何?本質は1つだけです【クリスチャンが回答】をどうぞ
放蕩息子の兄は律法学者とファリサイ派の人たちを表している?
この放蕩息子のたとえ話を読んで、もしかしたら納得がいかないという方もいるかもしれません。
それは恐らく、
お父さんひどくない!?
という意見でしょう!
どうですか、当たっていますか?
僕も初めにこのお話を聞いた時は同じことを思ったので、気持ちは滅茶苦茶よく分かります。
しかし、ここでのポイントは、
どういうことかというと、イエスが罪人たちにお話をされていたときに、
ファリサイ派や律法学者たちはそれを見て非難交じりにこういったのです。
と。
「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。 3そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、」
(ルカによる福音書15章1~3節)
その返事としてイエスが語られたたとえ話の1つが、この放蕩息子なのです。
ファリサイ派や律法学者たちはユダヤ教徒であり、
(詳しくは、【まとめ】聖書時代のユダヤ教の主な宗派4つをざっとまとめてみたを参照)
考えの違いからイエスと彼らは対立関係にあったのですが、実は
放蕩息子の兄はファリサイ派や律法学者たちのことをたとえていると言われています
先ほどのようにまとめてみると、
- 父親 ➡神様
- 放蕩息子➡罪を犯した人間
- 兄 ➡律法学者たち
こんな感じになります。
放蕩息子の兄は確かに真面目に働いてはいましたが、
父親から利益や報酬を得るために、ある種の義務感によって働いていました。
実際、お兄さんはこんなことを言っています。
「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 29兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 30それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。」
(ルカによる福音書15章28~30節)
ここから見ても分かる通り、兄が父親のために働く動機は”愛”ではなく”報酬”のためでした。
この姿はまさに、律法を形だけ厳守することで神の恵みを得ようとした律法学者たちそのものですね。
また、罪人である弟を責め立てようとする姿も、罪人たちを見下して責め立てる律法学者たちとそっくりです。
イエスは、そんな彼らを批判する意味でもこの放蕩息子のたとえを語られたのです。
神様は、私たちが正しいから恵みや祝福を与えてくださるわけではありません。
どんな罪人にも無償で恵みと祝福を与えてくださるお方なのです。
聖書にもこうあります。
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」
(マタイによる福音書5章45節)
ですから、私たちは素直にその恵みを受け取ればいいのです!
まとめ:”放蕩息子”は神の愛と罪の本質を教えてくれるたとえ話!
決して長くはないですが、神様の深い愛情と罪というものの本質が分かる大切なお話でしたね!
有名なだけあって、やはり奥が深い。。
ところで、皆さんはこのお話の兄か弟どちらかに当てはまりましたか?
当てはまっても大丈夫!
神様の愛の前では全てが無力ですから。(言い方)
キートンでした。