ジーザス、エブリワン!キートンです。

分かりやすく教えて欲しいなあ。。
こういった疑問にお答えします。
今回は、イエス・キリストが語られた“山上の垂訓(説教)”をご紹
これは世界一有名な説教と言っても過言ではなく、
- 主の祈り
- 地の塩、世の光
- 右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい
- 汝の敵を愛せよ
などキリスト教を代表する教えや名言が散りばめられています。
また、インド独立の父である“マハトマ・ガンジー”も、山上の垂訓(説教)をこのように絶賛していますね。
「あなたの国とわたしの国が,この山上の垂訓(説教)の中でキリストが述べた教えについて意見の一致を見るならば、わたしたちの二国の問題のみならず全世界の問題をも解決することになるでしょう」
(マハトマ・ガンジー)
これほどの影響力を誇る山上の垂訓(説教)ですが、詳しい内容を知らないという方も少なくないでしょう。
そこで今回の記事では、クリスチャンの僕が、
- “山上の垂訓(説教)”とは?
- 【解説】山上の垂訓(説教)の主な名言7選
- なぜイエスは山上の垂訓(説教)を行った?
- 山上の垂訓(説教)を描いた絵画
について詳しく解説します!

👇動画で見たい方はこちら
目次
“山上の垂訓(説教)”とは?

山上の垂訓とは、イエス・
“山上の説教”ともいい、これは後に有名な神学者アウグスティヌスによって名付けられました。
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。」
(マタイによる福音書5章1、2節)
その内容はキリスト教の中心的な教えをまとめたようなもので、当時一般的だったユダヤ教の概念を覆すものでした。
新約聖書の”マタイによる福音書”と”ルカによる福
マタイは”山上”、ルカは”平地”となっているため、
- マタイによる福音書➡”山上の説教”
- ルカによる福音書 ➡”平地の説教”
として区別することもあります。

【解説】山上の垂訓(説教)の主な名言7選
それでは、山上の垂訓(説教)の具体的な内容を見ていきますが、その量は膨大。
というわけで、山上の垂訓の中でも僕が個人的にこれは外せないと思う名言を7つ厳選してご紹介します!
- 8つの幸い
- 地の塩、世の光
- 右の頬を打たれたら、左の頬も向けろ
- 汝の敵を愛せよ
- 主の祈り
- 求めなさい、そうすれば与えられる
- 狭い門から入れ
①8つの幸い

「「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
(マタイによる福音書5章3~10節)
幸福の説教、至福の教えなどとも呼ばれる、山上の垂訓を代表する教えです。
ここでは、幸いな人の8つの特徴とその人達が受ける祝福が書かれています。
ただし、ここで語られている幸いとは、人間から見た幸いではなく、神から見た幸いです。
つまり、この世の価値観ではなく、天国での価値観ということですね。

実際、これらの幸いは、私たちが通常思い浮かべるような
- お金持ちになる
- 成功を収める
- モテモテになる
といった幸いとは明らかに異なっています。
いや、むしろ心の貧しい人や悲しんでいる人が幸いというのは、この世の常識とは真逆の価値観といってもいいかもしれません。
天国での幸いは、この世での繁栄や快楽といった一時的なものではなく、永遠に続く真の喜びに溢れたものなのです。
✅天国については、【聖書】天国ってどんなところ?種類や行き方まで全て教えます!をどうぞ
②地の塩、世の光

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 14あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 15また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
(マタイによる福音書 5:13~16)
僕が通っていた青山学院大学では、キリスト教系の授業で“地の塩、世の光”という名前のテキストを使用していました。
他にも何冊か同じタイトルの本が販売されているくらい、
ここで言う”あなたがた”というのは、12弟子のことを指しており、キリストに従うクリスチャンに向けられている言葉だということが分かります。
まず”地の塩”の部分ですが、当時塩というのは、食べ物が腐るのを防ぐ防腐剤の役目を果たしていました。
この世の中には罪や悪といった腐敗がたくさんありますが、その中でクリスチャンは、

とイエスは語られたのです。
その役目がなければ、塩気のない塩のように全く役に立たなくなってしまいますからね。
クリスチャンは、世の腐敗に影響されるのではなく、
清い地の塩として世の中に影響を与えていかなくてはいけないのです。
次に“世の光”の部分ですが、腐敗したこの世の中は闇で覆われています。
しかし、イエスキリストはそんな世界の闇を照らす光として、地上に来てくださいました。
そして、キリストに従うクリスチャンも、イエスのように世の光となることができるのです。
イエスはこう語られました。
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」」
(ヨハネによる福音書8章12節)
また、世の光としてクリスチャンが良い行いをしていけば、
例えば、あなたがコンビニに行って、

という感じで、コンビニ自体の評価も上がりますよね?
同じように、世の人々はクリスチャンの行動を通して、そのクリスチャンが信じている神のことを評価するのです。

✅詳しくは、地の塩・世の光とは?わかりやすくクリスチャンが解説【聖書】をどうぞ
③右の頬を打たれたら、左の頬も向けろ

「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
(マタイによる福音書 5:39)
聖書の中でもトップクラスに有名な箇所。
学校でクリスチャンがいじられるときに使われる、
しかし、ここで語られているのはただ単に、

ということではありません。
当時、頬を平手打ちするというのはただの暴力ではなく、侮辱や挑発の意味がありました。
また、”右の頬を打つなら”とありますが、右利きの人が相手の右の頬を打つためには、手の平ではなく、手の甲で打つことになりますよね?
これはユダヤの社会では最大の侮辱を意味しました。
しかし、イエスはそうした侮辱を受けても決して復讐してはならないと語られたのです。
なぜなら、復讐をするのは、私たち人間ではなく神のお仕事だからです。
聖書にも、こうあります。
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」
(ローマ人への手紙12章19節)
人間による復讐は、さらなる争いを生むだけですからね。

✅【聖書】復讐するは我にありの本当の意味とは?復讐はダメ絶対!の記事も参照
④汝の敵を愛せよ

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」
(マタイによる福音書 5章43~46節)
当時、ユダヤ人は同じユダヤ人だけを隣人とし、愛すべき対象としていました。
また、

という考え方を持っていました。
しかし、イエスは仲間だけでなく、敵さえも愛しなさいと語られたのです。
なぜなら、神ご自身が善人にも悪人にも、公平に豊かな恵みをお与えになる方だからですね。
実際、どんな悪い人間の上にも神は太陽は昇らせ、恵みの雨を降らせてくださいます。
また、イエスキリストも、罪を犯して神に敵対し続けている私たち人間を愛して十字架に架かってくださいました。
だから、私たちもそれを見習って、敵を愛しその人のために祈る必要があるということですね。

⑤主の祈り

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 10御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 11わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 13わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」
(マタイによる福音書 6:9-13 )
これはいわゆる“主の祈り”と呼ばれる箇所で、
キリスト教のほぼすべての宗派で唱えられている重要なお祈りで、キリスト教を代表する祈祷文ですね。
構成としては、
- 前半3つの祈り➡神についての内容
- 後半3つの祈り➡人間についての内容
にそれぞれなっています。
主の祈りは新約聖書の”マタイによる福音書”と”ルカによる福音書”どちらにも書かれていますが、
教会で伝統的に祈られているのは、“マタイによる福音書”のほうですね。
ちなみに、イエスが弟子たちにお祈りのお手本を示されたのは、これが最初で最後でした。
✅詳しくは主の祈りの意味とは?わかりやすくクリスチャンが解説【天にまします我らの父よ】をどうぞ
⑥求めなさい、そうすれば与えられる

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」
(マタイによる福音書 7:7)
こちらも、一般的にもよく知られている非常に有名な聖句ですね。
ただし、この聖句は本来、社会的成功を求めて全力で努力すればそれが得られるといった自己実現の法則ではありません。
ここで語られているのは、辛抱強く神に祈り求め続けることの大切さです。
なぜなら、忍耐を持って祈り続けるときに、必ず神はそれに応えてくださるお方だからですね。
神は私たちを愛しておられ、最も必要な良いものを必要なときに与えてくださいます。
イエスは本聖句の後で、こうも語られました。
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
(マタイによる福音書7章9~11節)
キリストを信じる者はみな、神の子供です。
不完全な人間の父親でも、自分の子供にはなるべく良いものを与えようと思いますよね?
それなら、天の父である神が自分の子供たちに良いものを与えてくださらないはずがないんですね!
✅祈り方については、【キリスト教】正しい祈り方って?クリスチャンが3ステップで伝授をどうぞ
⑦狭い門から入れ

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
(マタイによる福音書7章13、14節)
競争者が多くて就職や入学などが難しいことを意味する“狭き門”という言葉の由来となった聖句。
当時、ユダヤ教指導者たちの教えに従うことこそが天国への道だと考えられていました。
しかし、命への門に入って天国に行くには、イエスキリストを信じる以外にはありません。
なぜなら、キリストだけが道であり真理であり命だからです。
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(ヨハネによる福音書14章6節)
私たち人間の前には、
- 滅びへの門
- 命への門
という2つの門があり、どちらかしか選ぶことはできません。
多くの人が楽に入れる滅びへの門から入ってしまいますが、その先にあるのは滅びであり地獄です。
だからこそ、キリストを信じて、多くの人がその存在に気付かない狭い門から入らなくはいけないのです!

✅詳しくは【聖書】狭き門より入れの意味とは?クリスチャンが分かりやすく解説をどうぞ
なぜイエスは山上の垂訓(説教)を行った?

そもそも、イエス・キリストはなぜこのような説教を語られたのでしょうか?
それは、“モーセの律法の正しい解釈を伝えるため”です。
モーセの律法とは、旧約聖書の時代に預言者のモーセが神から受けとった法律のこと。
かの有名な“十戒”を含むこの律法は全部で613にも及び、ユダヤ人たちはこれらを守ってきたのです。
「これらは主が、シナイ山で、自分とイスラエルの人々との間に、モーセによって立てられた定めと、おきてと、律法である。」
(レビ記26章46節)
しかし、この律法はいつの間にか本来の解釈とはかけ離れ、ユダヤ教の指導者たちを筆頭に形式的に守られるものになってしまっていました。
そこで、イエスはモーセの律法を引用し、

とモーセの律法が本来持っていた正しい意味をユダヤ人たちに示されたのです。
つまり、モーセの律法をイエス・キリストというフィルターに通したものが山上の垂訓と言えますね。
✅十戒については、【わかりやすく】モーセの十戒の内容とは?簡単にまとめてみたをどうぞ
山上の垂訓(説教)を描いた絵画
では最後に、山上の垂訓(説教)のシーンを描いた絵画をいくつかご紹介しましょう!

「山上の垂訓」(ヤン・ブリューゲル(父))
かなり遠くから山上の垂訓の様子を描いた絵画。
そのため、全体の様子が見えますね。
イエスの教えを聞こうと、すごい量の人たちが集まっているのが分かります。

「山上の垂訓」(カール・ハインリッヒ・ブロッホ)
『山上の垂訓』1877年 カール・ハインリッヒ・ブロッホ Sermon on the Mount, Carl Heinrich Bloch pic.twitter.com/eTwSiZH5lP
— キリスト教絵画bot (@religious_bot) January 20, 2021
他にも様々なキリスト教をテーマにした作品を残した、ブロッホによる絵画。
こちらは非常にリアルで、今にも人物たちが動き出しそうな1枚ですね。
手を上に掲げてお話をするイエスの頭の周りには、オーラ的(“光背”というらしい)なものが出ています。
イエスを見つめる観衆の中にも、
- 敬虔(けいけん)な姿勢で聞く者
- 反抗的な態度で聞く者
- 興味本位で聞く者
など様々な人が混ざっていることが伝わって、面白いですね。
「山上の説教」(フラ・アンジェリコ)
「えぇか、バレンタインデーまであと10日や。努力はきっと報われるで。」
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
フラ・アンジェリコ『山上の説教』(1436〜1443)
参照:新約聖書 マタイによる福音書 5章 pic.twitter.com/HV8qKYyRhp— キリ絵de大喜利 〜キリスト教絵画×お笑い〜 (@kyrie_de_ogiri) February 4, 2020
イエスの周りに12人しかいないのを見ると、恐らく、
イエスが12弟子に山上の説教を語っておられる場面でしょう。
その証拠に、12人の頭の上には、先ほどイエスがまとっていた光が描かれています。

上記の2枚と比べると、かなりシンプルな絵画ですね!
まとめ:山上の垂訓は世界中の人々に影響を与えた最も有名な説教!

上記でご紹介した以外にも、
- 豚に真珠
- 砂上の楼閣(ろうかく)
など山上の垂訓には、現在私たちが当たり前に使っている言葉の由来となる聖句もいくつかあります。
こんなところからも、山上の垂訓がいかに大きな影響力を持っているかが分かりますね。
とはいえ、これらは山上の垂訓のほんの一部。
他にも、これでもかというくらい素晴らしい名聖句があるので、ぜひ実際に聖書で読んでみてくださいね!
キートンでした。



👇参考文献