ジーザス、エブリワン!キートンです。
今回は、イエス・キリストの大切な教えが詰まった“山上の垂訓(説教)”をご紹
これは世界一有名な説教と言ってもよく、たくさんの名言や金言が散りばめられおり、
下手な自己啓発本を読むくらいなら、この山上の垂訓を読んでみましょう!
きっと人生に潤いを与えてくれるはずですよー!
この記事では、
- “山上の垂訓(説教)”とはなんなのか
- 具体的にどのような名言があるのか
などについて見ていきましょう!

目次
“山上の垂訓(説教)”とは?

山上の垂訓とは、イエス・
“山上の説教”ともいいますね。
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 」
(マタイによる福音書5章1、2節)
新約聖書の”マタイによる福音書”と”ルカによる福
マタイは”山上”、ルカは”平地”となっているため、
- マタイによる福音書➡”山上の説教”
- ルカによる福音書 ➡”平地の説教”
として区別することもあります。
山上と付いてはいますが、
まあ、”高尾山”でないことは確かでしょう!



厳選!”山上の垂訓(説教)”の代表的名言集!【解説あり】
それでは、具体的な内容を見ていきたいのですが、その量は膨大!
というわけで、山上の垂訓の中でも僕が個人的にこれは外せないと思う名言を厳選してご紹介します!
あなたがたは地の塩、世の光だ!!

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 14あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 15また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
(マタイによる福音書 5:13~16)
いきなり長いですが、おゆるしを!
僕が通っていた青山学院大学では、キリスト教系の授業で、“地の塩、世の光“という名前のテキストを使用していました。
他にも何冊か同じタイトルの本が販売されているくらい、

ここで言う”あなたがた”というのは、12弟子たちのことを指しています。
まず、地の塩の部分ですが、
- 地➡この地上、世の中のこと。
- 塩➡役に立つもの、優れたものの比喩。
をそれぞれ表しています。
では、塩のどこが優れているかというと、塩というのは、
- 調味料
- 防腐剤
- 清め
など様々な重要な機能を持っているからです。
しかし、当時の塩は現在使われている”海塩”ではなく、もっと粗(あら)い“岩塩”で、
この塩のように、私達もこの世の汚れによってその機能を失ってしまう危険性があります。
つまり、
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」
➡あなたたちはこの地上の塩のような存在なのだから、その機能・清さを失わないように気をつけなさい。
ということですね。
また、“世の光”というのは、この世の光ということ。
イエスは他の箇所でご自身のことも”世の光”だと語られていますが、イエスに従う人もその光を持つことができます。
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」」
(ヨハネによる福音書8章12節)
そして、キリストに従う者がその光を輝かせ、素晴らしい行為をしていけば、
わかりやすく言うと、皆さんがコンビニに行って、

という感じで、コンビニ自体の評価も上がりますよね?
同じように、
他の人々はクリスチャンの行動を通して、そのクリスチャンが信じているキリストのことを評価するのです。
いやー、責任重大ですね!
詳しくは、地の塩・世の光とは?わかりやすくクリスチャンが解説【聖書】をどうぞ
スケベな目で女性を見たら、その時点で姦淫!

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
(マタイによる福音書 5:28 )
ここは、少しゾッとする箇所です。
“モーセの十戒”には、※姦淫(かんいん)してはならないと書かれていますが、
ここでは、スケベな心で女性を見ただけで姦淫したと見なされる、という恐ろしいことが書かれています。
。。。え、見ただけで?
んー、なるほど。。
厳し過ぎません、イエス様?
この言葉を聞いた当時の男性は、みんな震え上がったでしょうね。
だって、当時は、姦淫は死刑に値する大罪でしたから。
「もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。」
(申命記 22:23-24)

ただ、ここでイエスが言いたかったのは、
姦淫という行為は心の中に情欲を抱いたときから始まっているよ、ということでしょう。
内側の気持ちが行動となって表れるわけですからね。
それにしても、ドキッとする箇所ではありますが。。
※姦淫➡既に結婚している人が、


右の頬を打たれたら、左の頬をも向けろ!

「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
(マタイによる福音書 5:39)
聖書の中でも、トップクラスに有名な箇所。
学校でクリスチャンがいじられる時に使われる、
しかし、ここで語られているのはただ単に、

ということではありません。
当時、頬を平手打ちされるというのはただの暴力ではなく、侮辱や挑発の意味もありました。
イエス様はそうした侮辱・挑発行為を受けても決して復讐してはならないと語られたのです。
なぜなら、復讐をするのは、私たち人間ではなく神様のお仕事だからです。
聖書にも、こうあります。
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」
(ローマ人への手紙12章19節)
人間による復讐は、さらなる争いを生むだけですからね。
この御言葉には、単なる無抵抗を超えた、強い意志のようなものが込められているのです。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ!

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
(マタイによる福音書 5:44)
これぞ、キリスト教!というような箇所で、
アガペーというのは、”無償の愛””無条件の愛”のこと。
つまり、憎たらしい相手でも無条件に愛しなさいということですね。
これは、一般的な愛とは全く別物で、

なぜ、敵も愛する必要があるかというと、神様がどんな人をも愛されるお方だからです。
相手が善人だろうが悪人だろうが関係ありません。
だからこそ、神に従う人もその態度を見習う必要があるということですね。
ちなみに、多くの人々のカリスマだったイエスにも、
それが、ファリサイ派や律法学者などのユダヤ教の人たちでした。
しかし、イエスはそんな彼らさえも愛し、彼らのためにお祈りしなさいと言われたのです。
これは正直、イエスの教えの中でも、

主の祈り

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 10御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 11わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 13わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」
(マタイによる福音書 6:9-13 )
これはいわゆる“主の祈り”と呼ばれる箇所で、
僕の教会でも、毎週必ず唱えられる重要なお祈りですね!
ちなみに、イエスがお祈りのお手本を示されたのは、これが最初で最後でした。
⬇️詳しくはこちらの記事をどうぞ

富は天に積め!

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 21あなたの宝のある所には、心もあるからである。」
(マタイによる福音書 6:19-21 )
ここでいう宝というのは、お金だけでなく、
- 所有物
- 仕事
- 才能
- 家族
など人が価値を感じるもののことを差しています。
確かに、この世の中で生きていくうえで、こうした宝は必要なものでしょう。
しかし、宝はこの地上にある以上は、誰かに盗まれる可能性もあるし、
私たちが生涯を終えるときに天に持っていくことはできない有限なものです。
だからこそ、イエスは地上ではなく、天に宝を積むように語られたのです。

イエスは、こんなことも語られています。
「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。」
(ルカによる福音書12章33節)
ここでは、自分の所有物を売って、他の人のために施せと語られていますね。
なぜなら、それが神様の御心だからです。
つまり、天に宝を積むとは、自分の宝を神様のために使っていくということです。
自分のためだけに宝を使っているうちは、天に宝を積むことはできません。
天に宝を積み上げれば、天国で神様は大きな報酬を与えてくださいますよ!

一日の苦労は、その日一日だけで十分!

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
(マタイによる福音書 6:34 )
これも、めちゃくちゃ有名な箇所ですね。
今風に言うと、“明日は明日の風が吹く”ということ。
とても励まされる、僕も大好きなみことばです!
私たちはすぐに将来の心配をしてしまいますが、その必要はありません。
なぜなら、生きるのに必要なものは全て神様が満たしてくださるからです。
イエスは、説教の中でこうも語られています。
「26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」
(マタイによる福音書6章26節)
神様は、鳥のことさえ養ってくださっています。
となれば、鳥よりも優れていて愛されている私たちのことを神様が養ってくださらないはずがありません。
心配性の人には特に響く名言ですね!
人を裁くな!さもなくば、お前も裁かれるぞ!

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。 2あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」
(マタイによる福音書 7:1-2 )
これは、ドキッとする箇所です。
裁いてはいけない、つまり、人の罪を責めたり批判したりすることをやめなさいと、
人を裁くような人は、神様からも厳しく裁かれてしまうのです。
特にここで語られているのは、神様の基準ではなく、自分の善悪の基準で人を裁くこと。
それは、神の御心を無視した、自分勝手な裁きに過ぎません。
また、イエスはこうも語られています。
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 4自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
(マタイによる福音書7章3、4節)
つまり、人を裁く前に、まずは自分の罪を悔い改めなさいということです。
人はどうしても、自分を棚に上げて人を非難しがちですからね。
しかし、いずれは全ての人が神様によって裁かれるときが来ます。
「それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。」
(ローマ人への手紙14章10節)
人を裁くことができるのは、あくまでも神様だけなのです。
求めなさい!そうすれば与えられる!

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」
(マタイによる福音書 7:7)
ここは、とってもシンプルで分かりやすい箇所ですね。
求めれば与えられ、探せば見つかり、門をたたけば開かれる。
つまり、神様は私たちが本気で祈り求めれば、必ずそれに応えて下さるお方だということです。
なぜなら、神様は私たちに良きものを喜んで与えてくださるお方だからです。
イエスはこうも語られています。
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
(マタイによる福音書7章9~11節)
キリストを信じる者は、神の子供です。
普通の父親でも、子供にはなるべく良いものを与えようと思いますよね?
それなら、天の父である神様が自分の子供たちに良いものを与えてくださらないはずがないんですね!


聞くだけでなく、実行せよ!

「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 48それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。 49しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである。」
(ルカによる福音書6章47〜49節)
これも、かなり長めの内容です。
ここではたとえを用いられており、まとめると
- 教えを行動に移す人 ➡がっちりした岩の上に家を建てる人
- 教えを行動に移さない人➡土台の無い地面の上に家を建てる人
という感じですね。
当然、土の上に家を建てても少しの災害で壊れてしまいますが、岩の上に建てれば嵐や地震がきても耐えられます。
そして、このような岩の土台は、イエスの御言葉を聞いて実行することで築かれていくのです。
また、この”実行する”というのがポイントで、ただ聞くだけでは意味がありません。
それは例えるなら、自己啓発本を読んでも何も行動に移さずに、結局何も変わらない人のようなものです。

イエスの御言葉を聞いて実行する人だけが、強固な土台を築くことができるんですね!
なぜイエスは山上の垂訓(説教)を行った!?

そもそも、イエス・キリストはなぜこのような説教を語られたのでしょうか?
それは、“モーセの律法の正しい解釈を伝えるため”です。
モーセの律法とは、旧約聖書の時代に預言者のモーセが神様から受けとった律法のこと。
かの有名な”十戒”を含むこの律法は全部で613にも及び、ユダヤ人たちはこれらを守ってきたのです。
「これらは主が、シナイ山で、自分とイスラエルの人々との間に、モーセによって立てられた定めと、おきてと、律法である。」
(レビ記26章46節)
しかし、この律法はいつの間にか本来の解釈とはかけ離れ、律法学者たちを筆頭に形式的に守られるものになってしまっていました。
そこで、イエス・キリストはモーセの律法を引用し、

と律法の正しい解釈をユダヤ人たちに提示されたのです。
こうしてユダヤ人が守ってきたモーセの律法は、キリストの教えによって上書きされました。
つまり、モーセの律法をイエス・キリストというフィルターに通したものが山上の垂訓と言えますね。

山上の垂訓(説教)には、現代の言葉の由来がたくさん!?

この山上の垂訓には、名言だけでなく、
例えば、”値打ちがわからない者には、
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」
(マタイによる福音書 7:6)
というみことばが由来になっているし、”就職や受験などで競争が激しいこと”を意味する“狭き門”は、
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。」
(マタイによる福音書 7:13 )
というみことばが由来です。
これだけでも、山上の垂訓がどれだけの影響力を持っているかが分かりますね。
⬇️もっと詳しく知りたい方は、こちらの記事をどうぞ

ガンジーも、山上の垂訓(説教)を絶賛していた!?

皆さんは、インド独立の父、“マハトマ・ガンジー”を知っていますか?
そう、”非暴力・不服従”を掲げたことでもおなじみのあのガンジーです。
実は彼、このイエス・キリストの山上の垂訓を絶賛しているのです。
ガンジーは、次のように語っています。
「あなたの国とわたしの国が,この山上の垂訓(説教)の中でキリストが述べた教えについて意見の一致を見るならば、わたしたちの二国の問題のみならず全世界の問題をも解決することになるでしょう」
(マハトマ・ガンジー)
イエス様の説教は、こんな偉大な人物にも影響を与えているんですね!
ちなみに、ガンジーは、

とも語っており、聖書自体にも大きな影響を受けていることを示唆しています。
⬇詳しくは、こちらの記事をどうぞ!

山上の垂訓(説教)を描いた絵画
では、山上の垂訓(説教)のシーンを描いた絵画をいくつかご紹介しましょう!

「山上の垂訓」(ヤン・ブリューゲル(父))
かなり遠くから山上の垂訓の様子を描いた絵画。
そのため、全体の様子が見えますね。
イエスの教えを聞こうと、すごい量の人たちが集まっているのが分かります。

「山上の垂訓」(カール・ハインリッヒ・ブロッホ)
『山上の垂訓』1877年 カール・ハインリッヒ・ブロッホ Sermon on the Mount, Carl Heinrich Bloch pic.twitter.com/eTwSiZH5lP
— キリスト教絵画bot (@religious_bot) January 20, 2021
他にも様々なキリスト教をテーマにした作品を残した、ブロッホによる絵画。
こちらは非常にリアルで、今にも人物たちが動き出しそうな1枚ですね。
手を上に掲げてお話をするイエスの頭の周りには、オーラ的(“光背”というらしい)なものが出ています。

イエスを見つめる観衆の中にも、
- 敬虔(けいけん)な姿勢で聞く者
- 反抗的な態度で聞く者
- 興味本位で聞く者
など様々な人が混ざっていることが伝わって、面白いですね。
「山上の説教」(フラ・アンジェリコ)
「えぇか、バレンタインデーまであと10日や。努力はきっと報われるで。」
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フラ・アンジェリコ『山上の説教』(1436〜1443)
参照:新約聖書 マタイによる福音書 5章 pic.twitter.com/HV8qKYyRhp— キリ絵de大喜利 〜キリスト教絵画×お笑い〜 (@kyrie_de_ogiri) February 4, 2020
イエスの周りに12人しかいないのを見ると、恐らく、
イエスが12弟子に山上の説教を語っておられる場面でしょう。
その証拠に、12人の頭の上には、先ほどイエスがまとっていた光が描かれています。

上記の2枚と比べると、かなりシンプルな絵画ですね!

まとめ:山上の垂訓は世界中の人々に影響を与えた最も有名な説教!

“山上の垂訓”の内容をいくつか挙げましたが、
垂訓の内容だけでも、
ぜひ実際に聖書で読んでみてください!
さて、
わたくしも、山の上で誰かに教えを説いてこようかね!(ただの変質者)
キートンでした。

