ジーザス、エブリワン!キートンです。
聖書に書かれている愛の定義や性質について知りたいなあ。。
こういった疑問にお答えします。
キリスト教はしばしば、“愛の宗教”と呼ばれます。
なぜなら、イエスが愛の教えを繰り返し語られたからです。
愛って美しい響きですよね!
しかし、皆さん。
愛って何ですか?
。。。あ、すみません、急に愛しい人に裏切られて絶望のさ中にいる人みたいな発言をしてしまいました!
安心して下さい、僕は別に恋人に捨てられたわけでも哲学に目覚めたわけでもありません!!
でもほら、皆さんも一度は考えたことがあるのではないですか?
愛って何だか漠然としていてつかみどころがないですから!
ところが、聖書には愛の定義についてばっちりと書かれています。
それが以下の聖句です。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 8愛はいつまでも絶えることがない。」
(コリント人への第一の手紙13章4~8節)
この箇所は”愛の賛歌”と呼ばれ、結婚式で読まれることもある有名な聖句ですね!
ちなみに、ここで語られている愛はただの愛ではなく、無条件の愛であるアガペーです。
ここには愛の性質がいくつも挙げられているので、今回はこの箇所から愛の定義を見ていきたいと思います!
聖書については、【最強の書物】キリスト教の”聖書”とは?永遠のベストセラー!?をどうぞ
目次
【真理】聖書が語る”愛”の定義とは?7つの性質をご紹介します!
全ての項目を挙げるとかなりの数になるので、今回は愛の性質を7つに絞りました。
それぞれ詳しく見ていきましょう!
◎愛の7つの性質
- 愛は寛容
- 愛は情け深い
- 愛は妬(ねた)まない
- 愛は高ぶらない
- 愛は自分の利益を求めない
- 愛は真理を喜ぶ
- 愛はいつまでも絶えない
①愛は寛容
ここでいう寛容は、原文のギリシャ語で
- 気の長い
- 忍耐強い
- 辛抱強い
といった意味があります。
愛のある人は、相手の失敗や罪に対してすぐにぶち切れたりはしません。
大らかな心で受け入れてゆるすことができます。
まさに太平洋のような広い心の持ち主なのです!!
だから、たとえ高級でおニューの純白の服にカレーうどんをぶちまけてしまっても、笑顔でゆるしてくれます!
愛そのものである神様も、めちゃくちゃ寛容なお方です。
なにしろ、私たちが持っていた罪という名の莫大な借金を帳消しにしてくださったのですから!
それも、ご自分の独り子であるイエスキリストを死なせてまで。
「すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」
(ローマ人への手紙3章25、26節)
神様が寛容なお方だからこそ、私たちは罪人でありながら救いを受けることができるのです!ああ感謝!
現在も、罪を犯し続けている私たちを受け入れてくださっているのですから、その寛容さは想像を超えていますね。。
イエス・キリストについては、【完全版】イエス・キリストとは?その生涯を簡単にまとめてみたをどうぞ
②愛は情け深い
情け深いは、原文のギリシャ語では、
- 慈悲深い
- 善良な
- 親切な
といった意味もあります。
情け深いと聞くと、まさに愛のある人という感じがしますね!
例えば、誰かが助けを必要としているときに、すっと手を差し伸べられるって素敵じゃありませんか!
イエスが語られたたとえ話の1つに、善きサマリア人のお話があります。
これは、強盗に襲われてボロボロになっていたユダヤ人の旅人を、
当時ユダヤ人から嫌われていたサマリア人だけが助けて介抱してあげたというもの。
「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」
(ルカによる福音書10章33、34節)
皆さんなら、自分のことを心底嫌っている人が目の前で困っていたらどうしますか?
もし僕だったら、助けるどころか、
今こそ積年の恨み晴らしてくれるわー!!くらえええええ!!!
とばかり、とどめを刺しているかもしれません。(鬼か)
しかし、サマリア人はきっとこのユダヤ人の旅人がとてもかわいそうに思ったのでしょう。
傷を手当てしただけでなく、宿屋まで運んで一晩中看病をしてあげたのです。
いやー、親切過ぎて泣けてきますね。。自分が恥ずかしい。。
これぞ情け深い愛の人の姿です!
善きサマリア人のたとえについては、“善(良)きサマリア人のたとえ”とは?分かりやすくまとめてみたをどうぞ
③愛は妬(ねた)まない
妬(ねた)むというのは、他の人の幸せや長所をうらやましく思って憎むことです。
確かに、優れた才能の持ち主なんかを見て、
とハンカチを噛みしめたくなるときってありますよね。(あれ、僕だけ?)
しかし、愛のある人は、素直に相手の幸せを願い長所を認めることができます。
聖書で妬まない人といえば、ヨナタンが思い浮かびます。
ヨナタンは当時のイスラエル王サウルの息子で、勇敢さと信仰の強さを持った次の王様の最有力候補でした。
しかし、そんなときに現れたのが、羊飼いの少年ダビデ。
ダビデは巨人ゴリアテを倒すと、次々と戦いに勝利し出世していきました。
(ダビデとゴリアテ戦は、【聖書物語】”ダビデとゴリアテ”のお話を分かりやすくまとめてみたをどうぞ)
普通なら、自分の王位継承を脅かしそうなダビデに大して嫉妬するところですが、ヨナタンは違いました。
むしろ、ダビデを心から愛しダビデが王様になることを望んだのです!
「サウルの子ヨナタンは立って、ホレシにいるダビデのもとに行き、神によって彼を力づけた。 17そしてヨナタンは彼に言った、「恐れるにはおよびません。父サウルの手はあなたに届かないでしょう。あなたはイスラエルの王となり、わたしはあなたの次となるでしょう。このことは父サウルも知っています」。」
(サムエル記上23章16、17節)
結果的に、ヨナタンの願い通り、ダビデはサウルの後を継いで王様になりました。
ちなみに、ヨナタンとは対照的に、父のサウル王はダビデにやばいくらい嫉妬しています。(おい)
なにしろ自分の王位を奪うかもしれない相手ですからね。
最初は可愛がっていたダビデを何度も殺そうしますし、息子のヨナタンさえ殺しかけたことがありました。(危険人物)
「33ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った。」
(サムエル記上20章33節)
こういうのを見ると、嫉妬ってやはりコワイ。。
④愛は高ぶらない
人間は、何か優れたものを持っていたり大きな成果を残したりすると、すぐに高慢になります。
鼻がピノキオのように高~くなってしまうのです。
しかし、愛がある人は変なプライドや高慢さを持っていないため、自慢したり自分を誇ることがありません。
むしろ、へりくだった謙遜(けんそん)な心を持っているのです。
預言者のモーセは、決して高ぶらない謙遜な人でした。
奴隷状態だったイスラエル人をエジプトから連れ出した偉大な指導者であり、神の声を直接聞けるという特権を与えられていたにも関わらずです。
普通なら、
海をパッカーンと割る奇跡まで起こしたあのモーセだよ??十戒も受け取ったあのモーセだよ??
君たち頭(ず)が高くない???
となってうぬぼれてもおかしくはありません!
しかし、聖書にはこう書かれています。
「モーセはその人となり柔和(別訳:謙遜)なこと、地上のすべての人にまさっていた。」
(民数記12章3節)
つまり、当時の地球上で最も謙遜だった男、それこそがモーセなのです!
例えば、あるとき、姉のミリアムと兄のアロンが、モーセに異邦人の妻がいることを責め立てました。
プライドの高い人ならぶち切れて言い返すかもしれませんが、モーセはこれに反論しなかったのです。
それどころか、その後神の裁きを受けて皮膚病になってしまったミリアムのために神様にお祈りをしました。
「その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。」
(民数記12章13節)
これは高慢な人には絶対にできないことですよね!
愛と高慢さは決して同居しないのです!!
モーセについては、【聖書人物】”モーセ”とはどんな人?海を割った偉大な預言者!?をどうぞ
⑤愛は自分の利益を求めない
いつも、自分にとって得かどうか、それを考えてしまうのが人間というものです。
パッと見て親切そうに見える人でも、心のどこかで、
と自分の利益のことを考えてしまっているもの。
下心なしで相手のために何かをするというのは、案外簡単ではありません。
しかし、愛のある人は、自分の利益を求めません。
一方的に惜しみなく相手にギブすることができるのです!
イエスキリストは、自分の利益を求めない究極の存在でしょう。
なにしろ、私たち人間を罪から救うために、自ら十字架にかかってくださったのですから!
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 23ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 24さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」
(ペテロの第一の手紙2章22~24節)
これはまさに見返りを求めない究極の愛ですよね!
まあ正直、どんな豪華な見返りがあったとしても、自ら十字架刑を受ける人はいないと思いますが。。
だって、十字架刑って残酷過ぎるんだもの!!
(十字架刑のやばさについては、【閲覧注意】十字架刑がいかに残酷で苦痛な刑なのかまとめてみたに書いています。)
しかし、イエスはただ私たちへの愛ゆえに十字架に架けられたのです。
これは、親が子供を一方的に愛するのと近いかもしれません。
自分の利益を求める愛は真の愛ではないのです!!
⑥愛は真理を喜ぶ
ここは正確には、”不義を喜ばず真理を喜ぶ”と書いてありますね。
不義というのは、神様から見て正しくないことを指します。
つまり、愛のある人は、
- 嘘を付いたり
- 高慢になったり
- 物を盗んだり
- 2ちゃんねるに人の悪口を書いたり
といった罪深いことを決して喜ばないということです。
“他人の不幸は蜜の味”なんて言いますが、愛の人はたとえ他の人の罪や失敗も喜ぶことはありません。
では、代わりに何を喜ぶのか?
それは、不義とは正反対のもの、つまり、
- 神様の教え
- 神様(聖書)の言葉
- 福音
といった神の目から見て正しい真理を喜ぶのです!
ですから、愛の人は、いつも神様の教えや言葉に従って生きます。
それは、人間基準の正しい生き方ではなく、神様基準の正しい生き方なのです!
例えば、イエスはその生涯で1度も罪を犯さず、神様の教えや言葉に完璧に従ったお方でした。(まさに神の子)
なぜなら、イエスは不義を喜ばず真理を喜ぶ愛のお方だったからです。
「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 22キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
(ペテロの第一の手紙2章21、22節)
だからこそ、その汚れなき血によって私たちの罪を清めることができたのです!
⑦愛はいつまでも絶えない
この世の中にあるもののほとんどは、やがて滅びます。
私たちの周りにある、
- 建物も
- 星も
- お金も
- お気に入りの服も
- ブランドのバッグも
いつかは消え去ってしまうのです。
しかし、愛は違います。
愛は、この世界が滅びた後もいつまでも絶えることありません。
なぜなら、神様=愛だから。
「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」
(ヨハネの第一の手紙4章16節)
愛が滅びるものであれば、神様も滅びゆくものになってしまいますからね!
しかし、神様は永遠であり神様の愛も永遠です。
実際、神様は私たち人間を生まれてからずっと、いや生まれる前からずっと愛してくださっています。
そして、それはこれからも変わることがありません!
第一コリントの13章は、以下のような言葉で締めくくられています。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」
(コリント人への第一の手紙13章13節)
つまり、
- 信仰
- 希望
- 愛
の3つはいつまでも残りますが、その中でも最も大いなるものこそ愛なのです。
ですから、やがて消えゆくものに固執してはいけません。
永遠に残り続ける愛を持って生きることがとても大切なんですね!
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」
(コリント人への第二の手紙4章18節)
まとめ:愛が持つパワーは凄まじい!!
◎愛の7つの性質
- 愛は寛容
- 愛は情け深い
- 愛は妬(ねた)まない
- 愛は高ぶらない
- 愛は自分の利益を求めない
- 愛は真理を喜ぶ
- 愛はいつまでも絶えない
愛の持つパワー、恐るべしでしたね。。
それゆえに、ここまで読んで、
と落ち込んでおられる方がいるかもしれません。
しかし、安心してください!この愛を自分の力だけで得ることができる人は誰もいません。
なぜなら、神様が聖霊を通して私たちの心に愛を与えてくださるからです。
ですから、神様にもっと心を愛で満たしていただけるように祈り求めていきましょう!
そうすれば、自然とあなたは”愛の人”になっているはずですよ!
。。。あれ、もしかして僕いま、
愛のある発言しちゃいました??(高ぶるな)
キートンでした。