ジーザス、エブリワン!クリスチャンブロガーのキートンです。

詳しく知りたいなあ。。
こういった疑問にお答えします。
キリスト教を代表する人物であり、人類史上最も有名な人物の一人と言えるイエスキリスト。
イエスが公で活動したのは、わずか3年ほどだったと言われています。
しかし、その短い期間に多くの教えを語り、奇跡を起こし、人々に計り知れない影響を与えました。
実際、今や世界でイエスキリストを信じている者の数は、2016年の時点で約24.5億人。(参照:東京基督教大学の日本宣教リサーチ)
イエスの生涯や教えが書かれた聖書は、”永遠のベストセラー”と呼ばれ、今も世界中で読み継がれています。
聖書にはイエスの名言や金言が詰まっており、2000年以上も世界中の人々に影響を与え、人生を変えてきました。
僕もその一人であり、日々イエスの言葉に救われ、励まされ続けています。
イエスの言葉には、時代や国境を越えた普遍の真理が込められており、
宗教にあまり関心のない方や、キリスト教に詳しくない方にとっても、きっと大きなヒントや気づきを与えてくれるはずです。
とは言え、イエスキリストという名前は知っていても、どんな名言を残したのかを知らない方も多いでしょう。
そこでこの記事では、クリスチャンの僕が
- イエスキリストの名言
- イエスキリストの最期の言葉は?
について解説します。

👇️動画で見たい方はこちら
✅️イエスキリストの詳細は、【完全版】イエス・キリストとはどんな人?その生涯を簡単にまとめてみたをどうぞ
イエスキリストの有名な名言18選【クリスチャンが徹底解説】

では、早速イエスキリストの名言を18個に厳選してご紹介します。
- 最も重要な教え
- 復讐をするな
- 人生に疲れたあなたへ
- イエスが救いへの唯一の道
- 人はパンだけで生きるのではない
- 黄金律
- 偉い人間になるには?
- 将来の心配をするな
- キリストの再臨
- 与える人(giver)になれ!
- 究極の愛とゆるし
- 本当に価値あるもの
- 永遠の命に至る水
- 言葉に気をつけろ
- 信じて祈ることの力
- 見ないで信じる者になれ
- 滅びない神の言葉
- イエスは良い羊飼い

①最も重要な教え
「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 30心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 31第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」
(マタイによる福音書22:36-40)
イエスの時代、ユダヤ教には旧約聖書に書かれた“律法”と呼ばれる神の教えが600以上もあり、それらを厳格に守るユダヤ人たちもいました。
律法の専門家の間では「律法の中でどれが一番大切か?」という議論がしばしばされており、イエスにも質問したのです。
すると、イエスは以下の2つの教えが最も重要だと語られました。
- 神を全身全霊で愛すること
- 自分を愛するように、他の人のことも愛すること
つまり、神と人を愛することが最も大切であり、神の律法はすべてこの2つの教えに要約されるということです。

②復讐をするな
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
(マタイによる福音書5:38,39)
イエスキリストの名言の中でもトップクラスに有名な聖句。
僕が学生の頃はこの聖句で、友達からいじられたのをよく覚えています。
肩をちょっと小突かれて、「クリスチャンは、左の頬も差し出すんだろー?」みたいな。懐かしい。。
まず、『目には目を、歯には歯を』というフレーズは、復讐をすすめるものと誤解されがちですが、元々は

という過剰な復讐を防ぐための律法でした。
旧約聖書の時代には、このルールが神の律法として定められていたのです。
しかし、時代が進むに連れて、この言葉を個人的な復讐や恨みを正当化するために使う人も現れました。
そこで、イエスは、

と語られたのです。
当時ユダヤの社会では、平手打ちは侮辱や挑発の目的で行われていました。
しかし、たとえ相手からそのような侮辱や挑発を受けたとしても、仕返しをしてはならないということです。
復讐は私たちに憎しみを抱かせ、さらなる争いを生みます。

✅️復讐については、【聖書】復讐するは我にありの本当の意味とは?復讐はダメ絶対!をご参照ください
③人生に疲れたあなたへ
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11:28-30)
こちらも、キリスト教を代表する非常に有名な聖句ですね。
私たちは人生の中で、さまざまな「重荷」を負って生きています。
例えば、
- 生きる意味が分からなくて悩む
- 病気や障害に苦しむ
- 仕事や家庭のストレスで精神的にボロボロ
- 過去の失敗が頭から離れない
などなど。
当時で言うと、律法を厳格に守らせようとするユダヤ教の指導者たちがおり、それが人々の大きな『重荷』の一つでした。
しかし、イエスはそんな人たちに対して、

そういうしんどさを全部持ったままで、私のもとに来なさい。
と語っておられるんですね。
「くびき」とは、牛などが二頭並んで重い荷を引くときに使われる道具です。
これによって、二頭の牛は重荷を負い合うことになり、一頭のときよりもお互いの負担は軽くなります。
同じように、私たちもイエスと共に歩むとき、人生の重荷は軽くされ、魂に安らぎが与えられるのです。
イエスは支配的な方ではなく、「柔和でへりくだった方」として、私たちに寄り添い、共に歩んでくださいます。
だから、完璧じゃなくても、弱さがあっても心配ありません。
イエスはあなたをありのまま受け入れ、愛し、支えてくださいます。

④イエスが救いへの唯一の道
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(ヨハネによる福音書14:6)
イエスがどんな存在なのかがまとめられている聖句。
聖書によると、私たち人間は誰もが生まれながらに神に背く罪の性質を持っており、聖なる神との関係が断絶されている状態です。
命の源である神との関係が絶たれているということは、人間がやがて死んで、永遠に滅びることを意味しています。
しかし、そんな私たちを愛してやまない神は、イエスキリストを救い主として地上に送られました。
イエスは罪のない神の子としてこの世に来られ、私たちの罪を背負って十字架にかかり、身代わりとして死なれたのです。
この犠牲によって、私たちに救いの道が開かれました。
つまり、イエスを救い主と信じる者は、その罪がゆるされ、父なる神との関係が修復することで永遠の命が与えられます。
まさに、イエスキリストこそが「救いへの唯一の道」なのです。
“道であり、真理であり、命”というフレーズについては、それぞれ以下のような意味があります。
- 道:イエスが父なる神(天国)に至る唯一の道
- 真理:イエスは時代や文化を超えて変わらない真理
- 命:イエスは命そのもので、彼を信じる者は永遠の命が与えられる
✅️イエスによる救いの詳細は、【キリスト教】福音(の三要素)とは?クリスチャンが簡単に解説をどうぞ
⑤人はパンだけで生きるのではない
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」
(マタイによる福音書4:4)
イエスが荒野で40日間の断食をした直後、悪魔(サタン)に「石をパンに変えてみろ」と誘惑されたときの言葉。
確かに、私たち人間はパンなどの食べ物がなければ生きていけません。
しかし、イエスは

と語られました。
なぜなら、人間は肉体だけでなく、”魂”や”霊”によって構成されているからです。
人間は神によって造られた霊的存在であり、本来は神との交わりの中で生きるように造られました。
そのため、神の言葉が私たちの霊的な食事であり、必要不可欠なのです。
肉体を生かすものがパンなら、魂や霊を生かすのは神の言葉です。

⑥黄金律
「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」
(マタイによる福音書7:11,12)
“黄金律(ゴールデンルール)”と呼ばれ、世界中で道徳の基本として引用される有名な教え。
神は私たちを愛し、惜しみなく良いものを与えてくださるお方です。
だからこそ、あなたたちも他の人に対して善を行いなさいと語られています。
実は、他の宗教でもこれと似たような教えはあります。
例えば、以下の通りです。
- 孔子(儒教)
➔「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(『論語』より)
- ヒンドゥー教
➔「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』より)
- イスラム教
➔「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである」(ムハンマドの遺言より)
ただ、これらはどれも「自分にしてほしくないことは人にするな」という消極的な表現がされています。
一方で、イエスの教えは「自分がしてほしいことを人にしなさい」という積極的な愛の行動をすすめているところに違いがあるのです。
つまり、「人にしてもらうのを待つのではなく、自分から先に人に良い行いをせよ」ということですね。
良いものを人に与えられるようになるには、まず自分自身が神の愛や恵みに満たされることが大切です。

⑦偉い人間になるには?
「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」
(マタイによる福音書 20:26,27)
この言葉は、イエスの弟子たちが「誰が一番偉いか」を争い合っていたときに語られたものです。
偉い人といえば、人の上に立って権力をふるう人というイメージがありますよね。
しかし、イエスはみなに仕える人こそ最も偉い人だと語られたのです。
何とも逆説的ですよね。
“仕える”とは、単なる奉仕活動のことではありません。
他の人を優先し、愛と謙遜をもって行動する姿勢のことです。
イエスも神の子でありながら、人々に仕えるしもべとしてこの地上に来られました。

⑧将来の心配をするな
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
(マタイによる福音書 6:33,34)
私たち人間は衣食住を含めて日常の様々なことを考え、将来の心配ばかりしています。
僕もかなりの心配性なので、その気持ちは良く分かります。
しかし、イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と語られました。
つまり、神を第一にして、神の意志を優先して生きるなら、神は私たちに本当に必要なものを与えてくださるのです。
畑を耕したり、倉に蓄えたりしない空の鳥でさえも、神は養っておられます。
それならば、神が愛を持って造られた最高傑作であり、鳥よりもはるかに価値が高い人間を神が放って置かれるはずがないのです。
ですから、明日のことを心配する必要はありません。
神を信頼して、今日という一日に集中して生きていけばいいのです。

✅️不安の解消法については、将来の不安を考えすぎる?聖書が教える5つの対処法【すぐにできる】もご参照ください
⑨キリストの再臨
「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」
(マタイによる福音書 24:42)
イエスキリストは約2000年前に神の子として地上に来られ、十字架にかかって死なれた後、三日目に復活されました。
そして弟子たちの目の前で天に昇られ、今も天におられます。
しかし、聖書は語っています――「イエスは再び戻って来られる」と。
これを”再臨”といいますが、この箇所はまさにキリストの再臨についてイエスご自身が語られている箇所です。
「イエスキリストがいつ来られるのか」というのは、多くの人が気になる疑問ですが、私たち人間にはその時がいつかは分かりません。
だからこそ、「いつイエスが来られてもいいように、しっかり準備をしておきなさい」と語られたのです。
準備とはつまり、イエスキリストを救い主と信じ、その教えに従って忠実に生きることですね。

⑩与える人(giver)になれ!
「受けるよりは与える方が、さいわいである」
(使徒行伝 20:35)
現代の社会では、「自分が何かを得ること」「手に入れること」が重視されがちです。
“ギブ・アンド・テイク”という言葉もよく使われますが、これも

という前提で語られることが多いですよね。
確かに何かを受け取ることは嬉しいものですし、それ自体は悪いことではありません。
しかし、イエスは「受けるよりも、与えることのほうがもっと幸いだ」と語られました。
なぜなら、与えることそのものが愛の行いであり、心を豊かにする行動だからです。
誰かの必要を満たしたり、助けたりすることで、相手だけでなく自分の心も満たされるんですね。
つまり、「見返りを求めずに惜しみなく与える”giver(ギバー)”になれ!」というのが、イエスの教えなのです。
実際、神ご自身が与えることを喜びとされる方であり、私たちにいつも様々な恵みを与えてくださっています。
その究極とも言えるのが、イエスキリストの十字架です。

✅️与える生き方の素晴らしさは、ギバーの特徴とは?与える人の人生が豊かになる4つの理由も参照ください
⑪究極の愛とゆるし
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
(ルカによる福音書 23:34)
イエスが十字架に架けられて、処刑されている最中に語られた言葉です。
私たちはほんの少し相手から嫌なことをされたときでも、つい「ムカつく!ゆるせない!」と感じてしまうものです。
しかし、このとき、イエスが置かれていた状況は比べものにならないほど過酷でした。
- 宗教指導者たちに無実の罪で訴えられ、裁かれる
- ローマ兵にムチで打たれ、十字架にかけられる
- 群衆から馬鹿にされ、見捨てられる
もしこんな状況に置かれたら、激しい怒りや憎しみを抱くのが普通ではないでしょうか。
しかし、イエスは怒るどころか、そのような人々のために祈り、彼らのゆるしを神に求めたのです。
これはまさに敵のためにさえ祈る、究極の愛とゆるしの姿ですね。
イエスを十字架に架けた人々を「ひどい!」と思うかもしれませんが、私たちすべての人間の罪のためにイエスは十字架に架かられました。

✅️ゆるしについては、【聖書が語る】赦すということは?人をゆるせるようになる方法も解説をどうぞ
⑫本当に価値あるもの
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」
(マタイによる福音書6:19,20)
私たち人間にはそれぞれ、「これこそ自分にとって宝物だ」と思うものがあります。
例えば、
- お金や財産
- 家族や親しい人間関係
- 健康や若さ
- 周りの評価
- モノや趣味などの所有物
などです。
僕もずっと昔に自分のお金で買ったギターを、今でも大切にしています。
こうしたもののために、私たちは日々努力し、多くの時間やエネルギーを注いでいます。
もちろん、宝を持つこと自体が悪いわけではありませんが、その宝に価値を置きすぎてしまうと危険です。
なぜなら、どれもがこの地上でしか通用しない一時的で不安定なものだからです。
事故や病気、災害で突然失うこともありますし、何よりも人はいつか死にます。
そのとき、どれほど大切にしていた地上の宝も、一つも持っていくことはできません。
だからこそ、イエスは地上にではなく、永遠に残る天に宝をたくわえなさいと語られました。
天に宝をたくわえるとは、例えば、
- 他の人を助ける
- 誠実に生きる
- 愛を持って接する
- 神との関係を深める
など、神に喜ばれる行いをすることです。
こうしたことに心を注ぐとき、私たちは永遠に価値あるものを積み上げることになります。
天の宝は失われることがなく、神がいつか必ず報いてくださるのです。

⑬永遠の命に至る水
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」
(ヨハネによる福音書 4章13〜14節)
私たちは日々、水を飲まなければ生きていけません。
しかし、どれだけ飲んでも、しばらくするとまた喉が渇いてしまいます。
それと同じように、私たちの心(魂)にも渇きがあります。
例えば、
- 誰かに認められたい
- 愛されたい
- 楽しいことや癒しを求めたい
- 不安や孤独を消したい
などなど。
そうした「心の渇き」を人は、人間関係・お金・周りの評価・娯楽・スピリチュアルなど、
さまざまなもので満たそうとします。
しかし、それらは一時的な満足は与えてくれても、すぐにまた渇いてしまうのです。
イエスは、そんな私たちに「決して渇かない水を与える」と語られました。
それは、イエスを信じる者に与えられる神の霊(聖霊)の働きであり、その人の内で尽きることのない命の泉のように湧き上がる水なのです。
実は僕も、かつては心の渇きを埋めようとして、たくさんの自己啓発本(300冊以上!)を読んでいた時期がありました。
本を読んだ直後は「これで人生変わるかも!」と思ったこともありましたが、数日後にはまた虚しさが押し寄せてきました。
しかし、ある日聖書を読み始め、イエスキリストに出会ったとき、それまで感じていた心の渇きが満たされていくのを感じたのです。

✅️自己啓発本のエピソードについては、自己啓発本は意味ない?300冊以上読んだ僕の結論【〇〇を読め】をどうぞ
⑭言葉に気をつけろ
「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」
(マタイによる福音書 12:36)
聖書は、人間は誰しもいつか神の前に立って裁かれる日(最後の審判)が来ると教えています。
そしてそのときには、行いだけでなく、日々発してきた“言葉”の責任も問われるとイエスは語られました。
例えば、
- 軽率で無責任な言葉
- 嘘や誹謗中傷、陰口
- 人を傷つける無神経な言葉
- 下品な冗談
などの言葉も神の前に問われるということですね。
今はSNSなどで、誰もが気軽に言葉を発信できる時代です。
だからこそ、私たちは普段の言葉にもっと意識を向ける必要があります。

✅️悪い言葉の危険性については、【聖書】悪口や汚い言葉を発してはいけない理由と解決法3選をどうぞ
⑮信じて祈ることの力
「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」
(マルコによる福音書 11:24)
信仰をもって祈ることの力について語られた力強い聖句。
神は私たちの祈りを聞いてくださっています。
ですから、「この祈り、本当に聞かれているのか?」と疑いながら祈るのではなく、

と信じて祈ることが大切です。
神に不可能なことは何もないのですから。
ただし、誤解してはいけないのは、これは「なんでも願えばすぐかなう」という意味ではないということです。
なぜなら、神は都合よく私たちの願いを叶えてくれる、ランプの魔神のような存在ではないからですね。
神の意志に沿わない自己中心的な祈りには答えられないこともありますし、答えられるまで時間がかかることもあります。

✅️正しい祈り方については、【キリスト教】お祈りの仕方5ステップ!すぐに使える例文もご紹介をどうぞ
⑯見ないで信じる者になれ
「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」
(ヨハネによる福音書 20:29)
十字架で死なれたイエスが三日目に復活された後、弟子のトマスに向けて語られた言葉。
他の弟子たちはすでに復活のイエスに出会い、喜んでいました。
しかしトマスは、「自分の目で見て、手で触れてみなければ信じられない」と言ったのです。
そんなトマスの前にイエスが現れて、自分の十字架での傷跡を見せた後に語られたのがこの言葉ですね。
人間はつい、「目に見えるもの」に頼ってしまいがちです。
しかし、この世界には“見えなくても確かに存在しているもの”がたくさんあることを私たちは知っています。
例えば、
- 空気や重力
- 愛や信頼
- 過去や未来
なんかはその代表的なものですよね。
同じように、神(イエス)も目には見えなくても確かに存在しておられます。
そして、日々私たちに語りかけ、導いてくださっているのです。

✅️神がいる証拠については、神様はいるわけない?実在すると言える5つの証拠【クリスチャンが語る】をどうぞ
⑰滅びない神の言葉
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」
(マルコによる福音書 13:31)
聖書ははっきりと、この世界には終わりがあると教えています。
実際、今の不安定な国際情勢などを見ても、「この世の中はいつまでも続かないのではないか」と感じている方も多いのではないでしょうか?
世界の終わりが来れば、この地上のあらゆるものは滅び去るでしょう。
しかし、神(イエス)の言葉、つまり聖書の言葉は永遠に滅びません。
なぜなら、聖書には人間の知恵ではなく、永遠に変わらない神の真理や約束が書かれているからです。
実際、旧約・新約聖書にはたくさんの預言が書かれており、それらは歴史の中で次々と成就してきました。

⑱イエスは良い羊飼い
「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」
(ヨハネによる福音書 10:11)
イエスが自分自身を羊飼いにたとえている聖句。
羊は非常に弱い存在であり、
- ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックになる
- 倒れると自力で起き上がれない
- 狼などに襲われたら終わり
- 群れからはぐれると戻って来られない
といった特性があります。
そしてイエスは、私たち人間のことをその「羊」にたとえられました。
なぜなら、私たちもまた人生の中ですぐに迷い、一人では何もできない弱い存在だからです。
しかし、そんな私たち羊を命がけで守り導いてくださるのが、良い羊飼いであるイエスです。
実際、イエスは自分の命をかけて、私たちを救うことを選ばれました。
今でも迷える羊である人間が、一人でも多く羊飼いイエスのもとに来ることをイエスは強く願っておられるのです。

イエスキリストの最期の言葉は?

たくさんの名言を残したイエスですが、果たして十字架上で死なれる前の最期の言葉は何だったのでしょうか?
実はイエスキリストの最期の言葉は、新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)によって異なります。
ただし、これは聖書が矛盾しているわけではなく、それぞれの著者が異なる視点から重要だと考えた言葉を記しているからです。
- マタイによる福音書・マルコによる福音書
- ルカによる福音書
- ヨハネによる福音書

マタイによる福音書・マルコによる福音書
「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
(マタイによる福音書 27:46)
“マタイによる福音書”と”マルコによる福音書”でのイエスの最期の言葉は、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。
マタイとマルコで表記の仕方が少し違いますが、意味はどちらも同じですね。
実はこの言葉は、旧約聖書の詩篇22篇1節の引用です。
「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」
(詩篇22:1)
詩篇22篇には、救い主がこの世の罪のために味わう深い苦しみを表した預言が書かれています。
つまり、イエスはこの詩篇を引用することで、旧約聖書の預言が成就したことを示すと同時に、
一時的に神から引き離される極限の苦しみを明らかにされたのです。
では、なぜ神の子であるイエスが「神に見捨てられる」ような苦しみを味わわれたのでしょうか?
それは、イエスが人類の罪をすべて背負って十字架にかかられたからです。
罪は神に背く性質であり、人を聖なる神から引き離します。
つまり、イエスは、本来なら私たち人間が味わうべき神との断絶=“見捨てられる苦しみ”を、代わりに背負ってくださったんですね。

ルカによる福音書
「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。」
(ルカによる福音書 23:46)
“ルカによる福音書”でのイエスの最期の言葉は、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」です。
この言葉は、旧約聖書の詩篇31篇5節の引用ですね。
「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」
(詩篇31:5)
詩篇31篇には、苦しみの中でも神への信頼を歌った詩が書かれています。
イエスはこの詩を引用しながら、まさにご自身の魂を神の手にゆだねて、静かに息を引き取られました。
つまり、これは絶望の言葉ではなく、父なる神への完全な信頼と従順の証なんですね。

ヨハネによる福音書
「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。」
(ヨハネによる福音書19:30)
“ヨハネによる福音書”でのイエスの最期の言葉は、「すべてが終わった」です。
一見すると、「ああ、もう全部終わりだ。。!」という絶望的な言葉にも見えますが、そうではありません。
この言葉は、イエスが地上で果たすべき神の救いの働きを完了したことを示しています。
つまり、敗北の叫びではなく、勝利の宣言なんですね。
イエスの十字架での死によって、罪に支配された人間に救いの道が開かれました。
私たちがイエスを救い主と信じて悔い改めるときに、罪はゆるされ、永遠の命が与えられるのです。

まとめ:イエスキリストの名言は私たちの人生を変える!

聖書に書かれたイエスの言葉は、2000年以上にわたって世界中の人々の心を打ち、人生を根本から変えてきました。
実際、キリスト教徒の多さや、今なお世界中で読み継がれている“永遠のベストセラー”聖書の存在が、そのことを証明していますよね。
ただ、今回ご紹介したのは、イエスが語られた言葉のほんの一部です。
今回、名言を厳選するのもめっちゃ大変でしたからね。。(白目)
他にも数え切れないくらい多くのイエスの名言や金言があります。
ぜひあなた自身の手で聖書を開き、イエスの“生きたことば”に出会ってみてください。
そのとき、永遠の真理によって人生が変えられていくはずですよ!
キートンでした。



👇️参考文献