ジーザス、エブリワン!キートンです。
それに、なんでイエスはこんなにたとえ話を語ったの?
こういった疑問にお答えします。
キリスト教の中心人物として知られるイエス・キリスト。
イエスは生きている間に、
その中で、頻繁に登場したのが数々のたとえ話です。
そのたとえはどれも印象的で、
そして、そのたとえ話の中には現代にも通じる素晴らしい教訓やメッセージが隠されています。
どんなものがあるのか気になりませんか??
そこで、今回はクリスチャンの僕が、
- イエス・
キリストの主なたとえ話 - イエスはなぜたとえ話を用いたのか?
などについてまとめていきます!
✅イエスについては、【完全版】イエス・キリストとはどんな人?その生涯を簡単にまとめてみたをどうぞ
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目次
【一覧】聖書のイエスの例え話7選
それでは、ここから主なたとえ話をご紹介していきましょう。
- 99匹の羊のたとえ
- 10人のおとめのたとえ
- 種をまく人のたとえ
- タラントのたとえ
- 放蕩(ほうとう)息子のたとえ
- 善きサマリア人のたとえ
- 仲間を赦さない家来のたとえ
①99匹の羊のたとえ
「そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」
(ルカによる福音書15章3、4節)
神の憐れみ深さや愛がテーマのたとえ話。
内容は、ある羊飼いが99匹の羊を残して1匹の迷子の羊を探しに行くというもの。
羊飼いは迷子の羊を見つけると、大喜びでその羊を背負って家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて
と言うのです。
ここでたとえられているのは、以下の通りです。
神は自分に従う人間のことも愛しておられますが、
自分から離れてしまっている罪人のことも同じく愛しておられます。
神は全ての人間を愛しており、誰一人として決して見捨てることはありません。
むしろ、迷い出た一人が自分のもとに戻って来ることを、とても喜んでくださるのです。
✅詳しくは、【聖書】”99匹の羊のたとえ”とは?解釈も含めてわかりやすく解説をどうぞ
②10人のおとめのたとえ
「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。」
(マタイによる福音書25章1、2節)
イエスキリストがこの世の終わりに再び来られるという、キリストの再臨がテーマになっているたとえ話。
このお話には10人のおとめが登場し、彼女たちは花婿の到来を待っている花嫁の付添人です。
当時の結婚式は、
- 花婿が花嫁の家に迎えに行く
- 花婿と花嫁は大行列と一緒に花婿の家に戻る
- 花婿の家で祝宴が行われ、多くの場合それが1週間続いた
というものでした。この花嫁の付き添いがおとめたちだったのです。
おとめたちはそれぞれ夜道を照らすためのともし火を持っており、その内の5人は賢く、5人は愚かでした。
賢い5人は油を入れたつぼを持っていたのに対して、愚かな5人は油を持っていませんでした。
花婿が到着するまでの間、愚かな5人はともし火のための油を買いに行きますが、
その間に花婿が到着してしまい、花婿の家の門は閉ざされてしまいます。
その後、愚かな5人が戻ってきても門は開けられず、婚宴に参加できなかったというお話です。
このお話でそれぞれたとえられているのは、以下の通りですね。
賢いおとめと愚かなおとめの違いは、しっかりと花婿が来る準備をしていたかどうかでした。
賢いおとめたちは、花婿がいつ来るかわからなかったので、万が一に備えてともし火だけでなく油も準備していたのです。
同じように、キリストを信じるクリスチャンも、
イエスがいつ再び来られてもいいように信仰を持って準備しておく必要があります。
なぜなら、キリストの再臨はいつであるかは、神以外誰も知らないからです。
「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」
(マタイによる福音書24:36)
キリストへの真の信仰を持ち、備えていた者は天国に入ることができるんですね。
✅詳しくは、【聖書】”10人のおとめのたとえ”って?キリストの再臨がテーマ?をどうぞ。
③種をまく人のたとえ
「イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。」
(マルコによる福音書4章2~4節)
神の言葉の受け止め方について語られているたとえ話。
内容は、種をまく人が種をまき、道ばたや岩の上、イバラの中などにまかれた種は実を結ばなかったが、
良い土地にまかれた種だけは三十倍、六十倍、百倍にも実を結んだというもの。
ここでたとえられているのは、以下の通りです。
- 種まく人➡神
- 種 ➡神の言葉
- 土地 ➡人間の心
つまり、同じ神の言葉を聞いても私たちの心の状態によって実が結ぶかは変わるということですね。
いくら神の言葉を聞いても、それを理解しようとしなかったり困難や迫害が起こるとすぐつまずいたりするなら、
道ばたや岩の上、イバラの中などにまかれた種のように実は結びません。
大切なのは、神の言葉を聞くだけでなく、それを理解し実生活に適用していくこと。
すると、私たちの人生は実りのある素晴らしいものになっていくのです。
✅詳しくは【聖書】種を蒔(ま)く人のたとえの意味とは?クリスチャンが解説をどうぞ
④タラントのたとえ
「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 」
(マタイによる福音書25章14、15節)
芸能人を指す”タレント”という言葉の由来にもなっているたとえ話で、神への忠実さがテーマになっています。
内容は、主人が3人のしもべにそれぞれの能力に応じて自分の財産(タラント)を預け、旅に出るというもの。
タラントとは、当時のギリシャの貨幣単位のことですね。
タラントの量はそれぞれのしもべで異なり
- 5タラント
- 2タラント
- 1タラント
という感じです。
しもべの内、5タラント預けられたしもべは+5タラント、
2タラント預けられたしもべは+2タラントそれぞれ商売でお金を増やして主人に褒められます。
ところが、1タラント預けられたしもべだけはお金を増やそうとする努力を怠り、土に埋めておいたことで主人から怒られてしまいました。
ここでたとえられているのは、以下の通り。
- 主人
➡神
- しもべたち
➡神に仕えるクリスチャン
- タラント
➡神から与えられた才能や能力など
最初の2人のしもべは、預けられたタラントも稼いだタラントも違っていましたが、
と全く同じように主人から褒められました。
それは、金額の大きさではなく、主人への忠実さが評価されていることを表しています。
私たちは例外なく誰もが神から何かしらの才能や能力などが与えられていますが、問題はどれくらい持っているかではありません。
与えられた才能や能力などをどれだけ忠実に生かし増やしていったかが問われているのです。
なぜなら、神は私たちを信頼しているからこそ、多くの財産を預けてくださっているからですね。
私たちもその信頼に応えて、忠実に預けられた財産を管理する責任があるのです。
✅詳しくは【聖書】”タラントンのたとえ”の意味とは?”タレント”の語源!?をどうぞ
⑤放蕩(ほうとう)息子のたとえ
「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」
(ルカによる福音書15章11~13節)
イエスのたとえ話の中でも特に有名なものの1つで、神の憐れみ深さがメインテーマとなっています。
このお話では、ある父親に2人の息子がおり、若い方の息子(放蕩息子)が父から財産を受け取って遠い国に旅立つも、
遊びまくって財産を使い果たしてしまいます。
その後、極度の貧困に陥った息子は、自分の愚かさに気づき父の元へ帰って来るのです。
ボロボロの状態になり、
雇い人の一人にしてもらおう。。!
と思っていた放蕩息子でしたが、父親は怒るどころか、遠くから息子を見つけると抱きしめてキスをし、その帰還を大いに喜ぶのでした。
ここでたとえられているのは、以下の通りです。
- 父親 ➡神
- 放蕩息子➡罪を犯した人間
放蕩息子はどうしようもないダメ人間に見えますが、私たちもすぐに罪を犯して神から離れてしまう放蕩息子です。
聖書が語る罪とは、このように神に背いて神から離れてしまうことを指します。
しかし、神はどんな罪人でも愛しておられ、私たちがどんなに罪を犯して神から離れても、
悔い改めて神のもとに帰って来る者を喜んで迎えてくださるお方なんですね。
✅詳しくは【聖書】放蕩息子のたとえとは?どんな解釈やメッセージがある?をどうぞ
⑥善きサマリア人のたとえ
「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」
(ルカによる福音書10章33、34節)
隣人に対する愛がテーマのお話で、これまた有名なたとえ話の1つですね。
このお話では、あるユダヤ人がエルサレムからエリコへの道で強盗に襲われ、半殺し状態で道ばたに放置されます。
そこに偶然、
- 祭司(ユダヤ教の宗教的指導者)
- レビ人(ユダヤ人の一部族)
が通りかかりますが、2人ともその男を見ると避けて通り過ぎてしまいました。
ところが、最後に通りかかったサマリア人はその男を見て気の毒に思い、傷の手当てをすると、宿屋に連れて行ってあげたのです。
当時ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあり、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑して交流を避けていました。
ところが、同じユダヤ人であるはずの祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのに対して、犬猿の仲であるはずのサマリア人が男を助けたのです。
私たちにとっての隣人というのは、
- 同じ民族の人
- 仲がいい人
- 血が繋がっている人
- 自分が気に入っている人
などに限定されるものではありません。
私たちが出会う全ての人、特に助けを必要としている人は例外なく私たちの隣人なのです。
そして、そのような隣人を自分自身のように愛しなさいとイエスは語られました。
ここで言う愛は、口先だけでなく行動が伴うものです。
「第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」
(マタイによる福音書22章39節)
ちなみに、アメリカやカナダではこのたとえ話をもとにした“善きサマリア人の法”という法律が存在します。
これは、急病人などへの救済行動が失敗しても罪に問われないというものですね。
✅詳しくは、善(良)きサマリア人のたとえとは?現代人にも分かりやすくまとめてみたをどうぞ
⑦仲間を赦さない家来のたとえ
「イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。」
(マタイによる福音書18章22~24節)
キリスト教にとって大切な赦(ゆる)しがテーマのたとえ話。
このお話では、ある王様が非常に大きな借金を抱えている家来の借金を全額帳消しにしてあげます。
王様のこの寛大な決断によって、家来は自由になり、家族と再び一緒に生活できるようになりました。
ところが、この家来は出て行くとすぐに、自分よりずっと少ない金額を借りていた家来仲間を見つけると首を絞め
と脅迫。
仲間はひれ伏して「必ず返すから待って欲しい」と頼みますが、家来は彼を牢屋にぶち込んでしまいます。
さあ、この話が王様の耳に入ると、王様はぶち切れ。
と問い詰めると、借金を全額支払うまでこの家来を牢屋に入れてしまいました。
ひどい話だなと思うかもしれませんが、それぞれの借金額を比べてみるともっとひどいです。
- 家来が王様にしていた借金➡1万タラント(約6000億円)
- 仲間が家来にしていた借金➡100デナリ(約100万円)
確かに100万円も小さな金額ではありませんが、6000億円に比べたらちっぽけなものでしょう。
しかし、家来は自分がとんでもない金額の借金を帳消しにされたにも関わらず、仲間のわずかな借金をゆるせなかったのです。
と思うかもしれませんが、実は私たちもこの家来と同じようなことをしています。
私たち人間は神に対して償い切れないほどの罪を犯してきましたが、
神はご自分の独り子であるイエスキリストを通して、その罪という借金を全て帳消しにしてくださいました。
しかし、私たちは、それに比べたら取るに足らないような他の人の小さな罪をゆるせないことが多いのです。
つまり、このお話では、
- 王様➡神
- 家来➡私たち人間
という感じでたとえられているということです。
私たちは既に、神の憐れみによって返しきれないほどの罪という借金を帳消しにされています。
だからこそ、人間もお互いに赦し合いなさいと聖書は語っているのです。
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」
(エペソ人への手紙4章32節)
✅赦しについては、【キリスト教】赦(ゆる)すとは?許すとの違いや大切な理由を解説も参照
イエスはなぜこんなにたとえ話を用いた!?
さて、上記に紹介したもの以外にもイエスは様々なたとえを用いて教えを語られました。
では、なぜわざわざイエスはこんなにもたとえ話を使われたんでしょうか?
普通に自分の教えだけ語るほうが楽な気もしますよね。
その答えは、イエスご自身が弟子たちに語られています。
「そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。 」
(マタイによる福音書13章11〜13節)
つまり、イエスがたとえを用いられたのは、人々に普通に神の国の教えを話しても理解できないからです。
当然ですよね、地上の人間からすれば、神の国など完全な別世界なのですから。
直接的に話したところで、理解するのは難しく、ピンとこないでしょう。
これは、医者から専門用語だらけで人体の説明をされるようなものです。
そこでイエスは、当時の人々になじみのある日常の様々な日用品や出来事、考え方などをたとえとして用いることで、
神の国などの真理を理解させようとしたんですね。
一方で、イエスのたとえは、心のかたくなな者には真理を隠すものにもなります。
つまり、いくらイエスのたとえを聞こうとも、心がかたくななら何の真理も見出せず無意味だということですね。
イエスがたとえ話を語られたのは、心が開かれた者だけが真理を受け入れられるようにするという目的もあったのです。
まとめ:イエスキリストはたとえ話の達人!
- 99匹の羊のたとえ
- 10人のおとめのたとえ
- 種をまく人のたとえ
- タラントのたとえ
- 放蕩(ほうとう)息子のたとえ
- 善きサマリア人のたとえ
- 仲間を赦さない家来のたとえ
イエスは、様々なたとえを駆使して人々に分かりやすくご自分の教えを語られました。
イエスのたとえは、時代を超えて現代の私たちにも様々な教訓やメッセージを与えてくれます。
いや、よくこれだけ上手いたとえがポンポン思いつくもんだ。。さすがは神の子。。
しかし、今回ご紹介したのもそのほんの一部。
気になった方は、ぜひ聖書を開いて他のたとえ話も読んでみてください!
そこには、イエスからの大切なメッセージが込められていますから。
キートンでした。
👇参考文献