ジーザス、エブリワン!キートンです。
とんでもない変化が起こるのかな。。?
こういった疑問にお答えします。
キリスト教には、洗礼(バプテスマ)という大切な儀式があります。
洗礼とは簡単に言うと、キリスト教に入信する際に行われるイエスキリストへの信仰を表明する儀式です。
イエスご自身も洗礼を受けられましたし、弟子たちに人々に洗礼を授けるようにも語られています。
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(マタイによる福音書28章19、20節)
そのため、キリストを救い主として信じて受け入れた人は、この洗礼を受けるのが一般的です。
それくらい大切な洗礼ですが、キリスト教ではない人からすれば、
と不思議に思うのではないでしょうか。
確かに得体が知れないですもんね。。洗礼では人が水に沈められるし。。(言い方)
僕は高校生の頃に洗礼を受けましたが、いくつかの変化を体験しました。
そこでこの記事では、クリスチャンである僕の実体験を元に、以下の内容をお届けします!
- 【Q&A】洗礼を受けるとどうなるの?実体験から3つ答えます
- 洗礼を受けても”完璧人間”になれるわけではないという話
洗礼がどのようなものかは、【解説】洗礼式(バプテスマ)とは?やり方もクリスチャンが解説で詳しく解説しています。
目次
【Q&A】洗礼を受けるとどうなるの?実体験から3つ答えます
それでは、洗礼を受けるとどうなるのか僕の体験から3つご紹介します!
- クリスチャンとしての自覚が強まった
- 救いの確信が強まった
- 罪が清められ生まれ変わった感覚があった
①クリスチャンとしての自覚が強まった
僕はクリスチャンホームに生まれましたが、決して最初から強い信仰を持っていたわけではありません。
むしろ、何となく遊びに行くような感覚で教会に行くという、なんちゃってクリスチャン状態でした。
しかし、高校生で決心をして洗礼を受けてからというもの、明らかに僕の中の意識が変わりました。
つまり、ティッシュペーパーよりペラッペラだった僕の人生に、
イエスキリストに自分の人生をささげて生きていくんだ!
という強い信仰という名の芯が通り、クリスチャンとしての自覚が強まったのです。
人は、洗礼によって初めてクリスチャンになるわけではありません。
イエスキリストを信じたなら、その時点で救われており、立派なクリスチャンです。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)
洗礼というのはあくまでも、その信仰を公に表明するものですね。
しかし、洗礼を受けるまでの僕は、クリスチャンとしての自覚が弱く、何となく生きていました。
それが洗礼を受けるという行為によって、大きく変わったということですね。
実際、洗礼を受けてからというもの、僕の人生も大きく変わり始めました。
以前よりも熱心に教会に通うようになったし、教会で、
- 教会学校の先生
- 賛美リーダー
- ユース(若者)リーダー
- 賛美の作詞・作曲
などあらゆる奉仕に携わるようになっていったのです。
もちろん、これは神様のお導きですが、僕が洗礼を通してクリスチャンとしての自覚や責任を持ち始めたことも無関係ではないでしょう!
②救いの確信が強まった
前述したように、人はキリストを信じた時点で救いを受けることができます。
つまり、クリスチャンホームで生まれ、既にキリストを信じていた僕は救いを受けていました。
しかし、クリスチャンとしての自覚が薄かった私には、救いへの確信も弱かったのです。
もちろん、そういった話は教会の中でも語られていたはずですが、当時のちゃらんぽらんの私には右から左。
くらいの認識でしかなく、それも頭の中の知識で留まっている状態でした。
しかし、洗礼を受けてから、そのぼんやりした救いの知識が確信に変わり、
ということが体感として理解できるようになったのです。
ただ頭で知っているのと、それを体感として理解するのでは大きな違いがあります。
これはまさに目からウロコな体験でしたね。
救われているという確信は、人生に大きな喜びを与えてくれます。
「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。」
(ハバクク書3章18節)
きっと洗礼を受けてからの僕は、目が以前よりもキラッキラと喜びで輝いていたことでしょう!
③新しく生まれ変わった感覚があった
洗礼にはいくつかのやり方がありますが、僕は浸礼という水に全身を浸すやり方で受けました。
これは最もオーソドックスなやり方で、水に浸かりその水から上がるという方法には、
- 水に浸かる
➡今までの古く罪深い自分が死んだ
- 水から出る
➡キリストと歩む新しい自分に生まれ変わった
という意味があります。
「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」
(ローマ人への手紙6章3、4節)
実際、僕が水に頭を入れられたときは死んだような感覚が、水から上がったときは生き返ったような感覚がありました。
それは非常に清々しいもので、自分は確かに新しい人生を歩みだしたのだと感じましたね!
人は誰しもが生まれながらにして罪の性質を持ち、日々神に背き罪を犯して生きています。
しかし、その罪のために十字架に架けられたキリストを信じて洗礼を受けるとき、それらの罪は清められます。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(コリント人への第二の手紙5章17節)
僕は、クリスチャンにとって誕生日は2回あると思っています。
1回目は、母親の体から生まれたとき。
そして、2回目はキリストを信じて洗礼をうけたときです。
どちらの誕生日も、非常に喜ばしいものですね!
洗礼を受けても”完璧人間”になれるわけではないという話
時々、
というようなことを聞かれることがあります。
しかし、洗礼を受けたからといって、いきなり完璧人間になれるわけではありません。
天使のように羽も生えませんし、神のごとく全身に光をまとい始めるわけでもありません!
洗礼を受けてもやはり罪を犯してしまいますし、未熟な存在であることに変わりはないんですね。
実際、聖書に登場するクリスチャンたちも、弱さや罪を持った人たちばかりです!
と思うかもしれませんが、そうではありません。
確かに、突然聖人のようになることはできませんが、キリストを信じ洗礼を受けることで、
聖霊の力が働き少しずつ清い人間に変わっていくのです。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」
(コリント人への第二の手紙3章18節)
これをキリスト教の用語で聖化といいますが、このようにしてクリスチャンは少しずつキリストの姿に変えられていくんですね!
だから、クリスチャンを見てもがっかりしないでおくんなせえ!
クリスチャンはキリストを信じるものであって、キリストそのものではないのです。
詳しくは、【実態】クリスチャンの人の性格って?聖人の集まりではないという話をどうぞ
まとめ:キリストを信じて洗礼を受けると人生が変わる!
◎洗礼を受けるとどうなる?
- クリスチャンとしての自覚が強まった
- 救いの確信が強まった
- 新しく生まれ変わった感覚があった
キリストを信じて洗礼を受けたとき、人生は大きく変わります。
なぜなら、そのときに私たちの罪はゆるされ、神の子供として新しく生まれ変わることができるからです。
これは聖書の知識としてだけでなく、今までの経験からも断言できます。
ただし、キリストへの信仰が全く無いのに、洗礼だけを受けても意味がないので誤解なきように!
あくまでも、キリストへの信仰があってこその洗礼ですから。
信仰のない洗礼なんて、例えるなら、
肉の乗ってない牛丼と同じです。(もはや牛丼じゃない)
キートンでした。