ジーザス、エブリワン!キートンです。
残酷だったって聞くけど、遠征の歴史やその影響についても教えて!
こういった疑問にお答えします。
今回は、“十字軍の遠征”についてご紹介したいと思います。
皆さんも学生時代に十字軍という名前、世界史で聞いたことがあるのではないでしょうか?
名前だけ聞くと、何だかかっこいい響きですよね!
何やら中二心をくすぐりますし。。ぐっふっふっふ。。
しかし、その実態はなかなか悲惨です。
十字軍の歴史は、残酷さにまみれた血みどろの歴史なのです。
この記事では、クリスチャンの僕が、
- “十字軍”とは?
- 十字軍遠征の歴史
- 十字軍が後に与えた影響
などについて解説します!
目次
“十字軍”とは?
十字軍というのは、中世ヨーロッパにおいて、
キリスト教徒(
その名の通り、十字軍に参加した兵士は胸に十字架の印を付けていました。
十字軍遠征によって、キリスト教勢力VSイスラム教圏という争いが始まっていきます。
この十字軍遠征はおよそ200年間も続き、合計7回もの遠征が行
ちなみに、十字軍には、
- 巡礼者
- 女性
- 子供
などの一般人も多く参加していたと言われており、多くの犠牲者を出しました。
十字軍の目的ときっかけ
上記でも述べましたが、十字軍の主な目的は、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することです。
皆さんもご存知の通り、エルサレムはキリスト教とイスラム教共通の聖地。
そのため、聖地を奪い合う形になってしまったんですね。
十字軍が始まったきっかけは、
ビザ
これを受けたローマ教皇ウルバヌス2世は“クレルモン公会議”を開くと、
今こそ、立ち上がる時だ!!
と。
これは歴史に残る名演説で民衆は大いに熱狂したと言われていますが、実はこれかなり話を盛っています。
なぜなら、実際はイスラム教徒はキリスト教徒を迫害などほとんどしていなかったか
つまり、これはただの口実で、十字軍遠征はほとんど侵略に近いんですね。
しかも、
聖職者の任命権をめぐる皇帝と教皇の争い(叙任権闘争) - 貧しい庶民の不満
など様々な要素が絡み合い、最初に掲げた”聖地奪還”という目的はいつの間にかどこかに消え
こうして、血で血を洗うような残酷な殺し合いが行われていくのです。
聖地エルサレムについては、【疑問】エルサレムに聖地が集中しているのはなぜ?宗教ごとに解説をどうぞ
十字軍の7回の遠征
それでは、それぞれの遠征を見ていきましょう。
※遠征回数には諸説ありますが、一般的な7回としてご紹介します
第1回(1096年〜99年)
最初の遠征というのもあり、
十字軍はその地ににゴドフロワという国王を立て、エルサレム王国を建国します。
最初にして、目的を達成した唯一の遠征と言えるでしょう。(いきなりピーク)
ところが、エルサレム城内に入った十字軍は、非戦闘員も含めた人々を大虐殺し略奪するなどやりたい放題。
その虐殺や略奪は1週間にも及び、7万人以上の人が殺されたと言われています。
他にも、十字軍は、
- ユダヤ人をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に閉じ込めて外から焼き殺す
- イスラム教徒の腹を割いたり、焼いて灰にしたりすることで※金貨を飲み込んでいないかを確かめる
などの非道な行為を行いました。
既に十字軍の本性があらわになっていますね。。恐ろしい。。
※当時、イスラム教徒は金貨を飲み込んで隠しているという噂がありました。
第2回(1147年〜49年)
十字軍国家の1つ”エデッサ伯国”がイスラム勢力に滅ぼされたのを受けて、
ローマ教皇エウゲニウス3世によって呼びかけられます。
フランス王ルイ7世などが主力となって遠征し、イスラム勢力側の拠点ダマスクスを攻撃しますが、反撃を受けて撤退。
第2回遠征は失敗
第3回(1189年〜92年)
ここにきてイスラム側に登場するのが、
サラディンはアイユーブ朝というイスラム王朝を創始した人物で、
“ヒッティーンの戦い”において十字軍を破り、エルサレムを奪います。
これを受けて教皇グレゴリウス8世が呼びかけて行われたのが、第3回の十字軍遠征です。
すると、
- ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)
- フランス王フィリップ2世(尊厳王)
- イギリス王リチャード1世(獅子心王)
という錚々(そうそう)たるメンバーが十字軍に参加し
しかし、ローマ皇帝は川を渡る際に水に溺れて死亡、
“アッコン”という十字軍の拠点を奪還した後、フランス王は本国に帰ってしまいます。
その後、残ったイギリス軍は単独で戦うも聖地奪還はできず、サラディンと3年間の休戦協定を結ぶことなります。
ただ、エルサレム奪還はできませんでしたが、
キリスト教徒は巡礼の時のみエルサレムに行けるようになりました。
第4回(1202年〜04年)
ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけで、ヴェネツィア商人を中心に第4回十字軍が編成されます。
ところが、十字軍が向かったのは聖地エルサレムではなく、まさかのコンスタンティノープル。
なぜなら、コンスタンティノープルは東西貿易の中心地であり、
ヴェネツィア商人たちはこの町を独占したいと考えていたからです。(欲に忠実か)
当然、インノケンティウス3世はこれにぶち切れますが、十字軍はコンスタンティノープルを占領。
その中心にラテン帝国を建国します。
結果的に、聖地エルサレム奪還という十字軍の目的からは大きく外れた遠征になりました。
第5回(1228年〜29年)
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって起こされた十字軍です。
十字軍はアッコンに上陸しますが、
なんと戦うことなくイスラム側と条約を結び、エルサレムを譲り受けます。
これは、フリードリヒの十字軍が抜群の外交術を持っていたからこそできたことでした。
ただし、この十字軍はローマ教皇の主導ではないため、単に”フリードリヒ十字軍”と呼ばれることもあります。
第6回(1248年〜54年)
ところが、1244年にエルサレムは再び、イスラム勢力によって奪われます。
そこで、熱心なキリスト教徒である、フランス国王ルイ9世が第6回十字軍を起こしました。
十字軍はイスラム側の拠点であるアイユーブ朝エジプトに遠征して、海港ダミエッタを占領しますが、
首都のカイロに向かう途中の”マンスーラの戦い”でイスラム軍に敗北。
ルイ9世は捕虜(ほりょ)にさせられてしまいます。
その後、
第7回(1270年)
第6回と同じく、フランス王ルイ9世の呼びかけで起こされた最後の十字軍。
民衆の十字軍への熱意は既に失せていましたが、ルイ9世は前回の失敗のリベンジに燃えていました。
十字軍はアフリカのチュニスに上陸してイスラム軍と戦いますが、ルイ9世が病気によってまさかの死去。
その後、
十字軍の影響
では、十字軍は後世にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?
まとめると、以下の通りです。
- イスラム文化やビザンツ文化が西ヨーロッパに入ってきて、後のルネサンスに影響を与える
- アラブ世界からさまざまな新しい技術や文化がヨーロッパに持ち帰られる
- 東地中海と西地中海の間に交易路が開かれ、ベネチアなどイタリア諸都市の商業活動が活発に
- 多くの犠牲者や経済的打撃が発生
- 教皇の権力が落ち、国王の権力が上昇
教皇と国王の部分だけ補足しておくと、教皇の権力が落ちたのは、
十字軍を呼びかけたのが教皇だったからです。
しかし、結果的に、十字軍は失敗続き。
そのため、力が弱まってしまったんですね。
一方で、十字軍を指揮していた国王の権力は高まりました。
そして、このことは、後の※絶対王政にも繋がっていきます。
※絶対王政➡16世紀〜18世紀のヨーロッパで見られた、強力な国王が国を支配する体制のこと。
イギリスのエリザベス1世やフランスのルイ14世などが有名。
まとめ:十字軍の実態はかなり残酷だった
十字軍の歴史を見ていくと、
僕はかなりソフトに書いていますが、
中には、人が人を食べるなんて行為も行われていたとか。(
同じキリスト教から見ても、
ま、僕はカトリックじゃないですけどね。(突き放すな)
キートンでした。